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140 苦汁の決断
邸を明け渡すに当たって、焔 は隣棟の遼二 ら鐘崎 組の組員は元より男遊郭の紫月 と飛燕 を自らの元に呼び寄せた。特に紫月 と飛燕 に対しては大事な頼み事をする心づもりでいるからだ。
「紫月 、飛燕 殿――二人に是非ともお願いしたいことがある。冰 を連れて日本へ渡ってもらえないだろうか」
その頼み事を聞いて、紫月 も飛燕 もひどく驚いたようだった。
「日本にって……冰 君と離れて暮らす気か?」
「ああ――。今後はますます我らにとって厳しい状況が予想される。正直なところ地下街の住民にある程度一定した生活を送らせるだけで手一杯になろう。幸い、羅鵬 はまだ俺が伴侶を持ったことを知らねえようだ。ヤツらに冰 の存在を気付かれる前に彼を無事な所へ逃がしたい」
勝手なことを言っているのは重々承知と付け加えた上で、焔 は是非とも力になって欲しいと頭を下げた。
「俺とてこのまま黙っているつもりは毛頭ない。――ないが、この街を取り戻すにしても相手は得体の知れない巨大組織だ。羅辰 の息子一人じゃここまでデカい事ができたとは思えんが、ヤツもてめえの後ろに組織がついているからと気が大きくなっているのだろう」
まずは羅辰 の息子らに従うふりをして状況を見極め、彼がその巨大組織とやらの中でどの程度の位にあるのかなどを秘密裏に探る必要がある。時間は掛かるが、その間この街の住民たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。
「ひとまずはヤツらの言うなりになって街を元の状態に復興させるのが先決だ。その間に羅鵬 の後ろ立てとなっている組織の解明と――ヤツらから街を取り戻す方法を考えねばならん」
その際、焔 が目に入れても痛くないほど大切にしている冰 の存在が知られれば、それを弱みと取られて身動きができなくなることが予想される上、何より冰 に危険が及ぶのは火を見るより明らかだろう。
「羅辰 の件で息子はこの俺を恨みに思っている。報復としてこの街を取り上げた上に冰 を人質にされては敵わん……」
冰 を守るには、彼を自らの元から遠く離れた日本に避難させ、矛先が向かないようにするしかない。焔 の苦渋の決断といえた。
「ですが皇帝――。羅辰 については一番恨みを受けるべきはこの私です。人質に取られるべきも当然この私。皇帝が冰 さんと離れて暮らさずとも、羅鵬 の前に私が父親の仇だと名乗って出るのが筋と存じます」
紫月 の父、飛燕 がそう言う。だが、焔 は首を縦には振らなかった。
「確かに――羅辰 が遊郭街を取り仕切っていたのは事実だ。飛燕 殿や紫月 が直接的に恨まれているだろうことも想像できるが、お二人はこの街に愛想を尽かして早々に逃げたということにしてもらえんだろうか。お二人には汚名を着せる形になるのがすまないと思うが、この街を取り戻すには長い目で慎重を期する必要があろうと思う。状況を覆すには焦りは禁物だ」
つまり、羅鵬 らに報復の戦 を仕掛けるにしても今ではない――という意味だ。
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