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142 悲しみに暮れる日々

 ひと月後、日本――。  (ひょう)飛燕(ひえん)紫月(ズィユエ)の実家である川崎の寺にて(ウォン)老人と共に平穏な日々を送っていた。 「もうあれからひと月も経つんだね……。(イェン)さん、どうしているだろう」  秋も深くなったこの時期、寺の境内には毎日のように落ち葉が溜まる。それを箒で掃きながら(ひょう)は空にたなびくうろこ雲を見上げては溜め息をつく――。  香港のファミリーから遼二(りょうじ)の父・鐘崎僚一(かねさき りょういち)を通して伝わってくる噂で、地下街の状況はある程度(ひょう)らの耳にも届いていた。(イェン)は皇帝邸を追われ、(ひょう)らが元住んでいたアパートで遼二(りょうじ)と共に暮らし始めたそうだ。鐘崎(かねさき)組の組員たちもその近所に住まい、今は紫月(ズィユエ)が治めていた男遊郭で用心棒として働いているという。地下街を乗っ取った羅鵬(ルオ ポン)にとっても、飛燕(ひえん)紫月(ズィユエ)がいなくなった今、代わりの用心棒は必要というわけだ。それを遼二(りょうじ)ら腕の立つ者に押し付けて、けれども経営で得た上がりはすべて自分の懐に放り込んでいるのだ。もはや遊郭にとってもバーやクラブの経営者らにとっても、微々たる報酬で働かされるだけ働かされて、暮らし向きは食べていくので精一杯という事態に陥っているのが聞かずとも分かるようだった。  遼二(りょうじ)と組員たちが(イェン)の側に残ってくれたことだけが(ひょう)にとって心強いことだったものの、その(イェン)自身は羅辰(ルオ チェン)の息子・羅鵬(ルオ ポン)によってひどく屈辱的な思いをさせられているとも聞いていた。なんと、地下街を荒らしにやって来た羅鵬(ルオ ポン)は火事で焼けた遊興街のメインストリートに巨大な廟を建てることを決めたそうで、そこに自身の父親である羅辰(ルオ チェン)を祀る気でいるというのだ。(イェン)は廟建設の作業員として地下街の住民らと共に事業に駆り出されているとのことだった。遼二(りょうじ)もそんな(イェン)の力になるべく、遊郭街の用心棒を組員たちに任せては、工事に携わっているという。  あの大火事からひと月が経ち、ようやくとその片付けも目処がついた今、遊興街の商売の方も徐々に元に戻る兆しにあるそうだが、それら経営で得た収入は殆ど羅鵬(ルオ ポン)の懐に入り、住民たちはただ働き同然の苦境を強いられているのが現状のようだ。皆、いつかは(イェン)がこの街を取り返してくれると信じて、今は堪えているようだと聞く。  むろんのこと(イェン)も、そして地上のファミリーもこのまま黙って引き下がっている気は毛頭ないだろう。だが、いくら時期を待つといっても、敵を祀る廟の建設を押し付けられている彼の気持ちを思えば、(ひょう)の心は痛んでならないのだった。 「(イェン)さん……できることならあなたの側に帰りたい。そして少しでもあなたのお役に立てればいいのに」  とはいえ、自身が戻れば羅鵬(ルオ ポン)はここぞとばかりに(イェン)を苦しめようとするだろう。香港を発つ際に彼も言っていたが、(ひょう)という(イェン)にとって大事な弱みを手に入れ、好き放題惨いことを企むだろうことは目に見えている。凌辱行為もそのひとつだろう。あるいはもっと酷い拷問のような手段で苦しめようとするかも知れない。そうなれば(ひょう)自身も辛いのは勿論だが、(イェン)は更に責任を感じて苦汁を呑まされるだろう。 「僕は何もできないのかな……。苦楽を共にしようと誓って伴侶となったのに――(イェン)さんにばかり辛い責任を背負わせて……あなたが一番苦しい時に側にいることさえ叶わないだなんて」  遠く離れたこの地で静かに待つことだけが今の自分にできる最良のことなのだろうか――(ひょう)の心は涙でいっぱいになった湖のように、流れ出る当てもなくただただ蓄積していく悲しみが膨れ上がるような日々だった。
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