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04.限界

 Ωは第二性別の中でも特殊な体質だ。  男女問わず子を宿す事が出来る上、他の人間へ発情を促す強いフェロモンを放出する。そのフェロモンはαへの強烈な誘引効果を持つ反面、他の性別への影響は比較的軽微なものとされている……が。    「なぁ、先輩。何か顔色悪くないか」  発情をコントロール出来なくなってしまったΩの生徒を診ている後ろから、春真の声がぽつりと聞こえる。普段は色々と鈍感なくせに、こういう時だけは目敏い。 「……平気だ」 「ホントかよ。何か最近おかし」 「大丈夫だ。搬送要員に連絡を」  意識的に笑顔を作って微笑むと、春真は変な表情で押し黙る。何か言いたげな顔をしながら教室を出て、携帯を取り出す後ろ姿が見えた。    ……本当は……大丈夫では、ないけれど。  発情状態だったΩが一瞬だけ春真に見えた。フェロモンを放って己を求める、Ωの本能が滲む春真に。  良く考えなくても違う人間だと分かる。感じる香りも何処か違う。けれどどうしても一瞬、春真に被る。誰を見ても。 「そろそろ限界だな……」  Ωのフェロモンはαに対して絶大な効果を発揮すると同時に他の性別も少なからず影響を及ぼす。  とはいえαの様に一度で影響される事は経験上、ない。繰り返しフェロモンに暴露し、体を蝕むようにその影響が蓄積されてヒート症状が現れる。  どうやら嫌な思考から逃げ出そうと、ヒートトラブルの予防活動に精を出しすぎたらしい。  唯一のβ用鎮静剤が過去の使い過ぎで効かなくなってしまった今、Ωのフェロモンに当てられると症状が落ち着くのを待つしかないのに。  またしても馬鹿なことをしてしまったものだ。   「……ぎ、さま」  不意にかけられた声に視線を動かすと、すぐそこに先程落ち着いたばかりのΩの顔があった。 「!? お、おい」 「やっとお近くに」 「なっ、はな……っっ!」  抱きつかれて沸き立つ、フェロモンの甘く強烈な匂い。どくどくと心臓が走り出して体温が上がっていく。急激な変化で息が苦しい。  ――この感覚は覚えがある。  発情している番を抱く時に突き動かされる衝動。それもフェロモンに惑わされ、春真を初めて犯した時のものと近い。見知らぬΩの香りをものにしようと興奮する、暴力的なものに。 「お、まえ……さっき、抑制剤……っ」  確かに持っていた抑制剤を飲ませたはずだ。飲み込むのも落ち着くのも、春真と共に見ていたのに。 「誘発剤、です」  べ、と出した舌の上には飲ませた覚えのない薬。予防活動用に学校から支給されたものとは違う。錠剤自体に毒々しいほど鮮やかな桃色が着色されたそれは、フェロモンを抑える抑制剤とは真逆の性質を持つ。  ……子を望むΩのための、発情を促す誘発剤だ。  学校生活にはまず必要のない薬。一体何処からそんな代物を。  呆然とその錠剤が飲み込まれていく様子を見つめていると、すぐ近くでくすくすと抑えた笑い声がする。 「嗚呼ほんとうだ……βなのにΩのフェロモンも効くんですね、もっと早く試せばよかった」  いつもなら撥ね付けられるはずなのに、フェロモンに暴露しすぎたせいで体が上手く動かない。強さを増す香りに絡めとられるように、引き寄せられるまま体が倒れていく。  近くに寄れば寄るほど甘い匂いが感覚を覆って、思考すらも霞がかかっていった。    ……ヒート事故で動けないΩを襲ったβ。  完全にインシデントだ。ここまできたのに、こんなに簡単に罠へかかるなんて。  にたりと笑う顔は似ても似つかない。香りだって違うのに。いよいよ目の前の顔が春真に見え始めて、抗えない欲求に沈み込んでいく。  限界を超え、すぐそこにある首筋へ触れようとした、その時。   「何してんだよ馬鹿野郎ッッ!!!」  思い切り後ろに引き戻され、襟で一瞬喉が締まる。怯んだ隙にそのまま床に放り投げられて右半身を結構な勢いで強打した。 「やっぱり調子おかしかったじゃねぇか! 助けたΩ襲う奴がどこにいんだよ!!」  こちらに対峙し怒りを露にする春真はぎっと己を睨み付けている。そうだろうな、状況を見るだけならその判断にもなる。  調子を見誤った愚か者が助けたはずのΩを襲う。滑稽な話だ。 「仁科儀さま……っ!」 「おまっ、離れろ! 襲われかけたんだぞ!?」  守っているはずの腕を振り切ろうと暴れ始めるΩに春真は慌てた様子で振り返った。這ってでもこちらへ来ようとする相手の肩を掴んで、距離を取るべく引きずり戻そうとする。  けれどそんな親切心がこのΩに通じるはずもなく、忌々しそうな顔が春真を睨む。 「うるさいッ……せっかくのチャンスなんだ! 離せ!!」 「はぁ!? てっ、メェ……!!」  もっと狡猾だと思っていたのに、予想以上に間抜けな相手だ。単に熱に浮かされて思い付きで行動したのだろうか。  黙っていればこちらを悪人に仕立て上げられたというのに。  案の定、その言葉で何が起ころうとしていたのか察したらしい。顔を真っ赤にした春真は、眉をつり上げてΩの生徒を床へ押し付けた。  俯せに組み伏せられてもなお暴れる相手の動きを封じるためか、背中を膝で押さえ付けている。かなりの体重が相手にかかっているだろう。物言い以外は穏健派の春真にしては、かなり乱暴な手段だ。 「人の親切利用してんじゃねぇぞ! 先輩がどんだけしんどい思いしてると思ってんだ!!」 「だ、からっ……鎮めて差し上げるんだよ! お前で反応するなら僕だって……ッ」 「こっ……の……! ふざけんな!! 仁科儀冬弥が襲っていいΩはオレだけだ!!!」  届くのは、聞きたかった言葉。番を奪われまいと必死な顔。春真も己と同じ気持ちなのだと実感できる態度。  ……しあわせなゆめでも、見ているのだろうか。  ここのところ去っていく春真の姿ばかり想像して、それが意識の中にこびりついていた。それに頭が疲れてしまったのかもしれない。  単純だが苦肉の妄想は成功したらしく、固まった体がじんわりとほぐれていく。目の前の会話も聞こえなくなって、良く知る香りのお陰で走らされていた心臓が落ち着いていって。  そのままとぷんと眠りの中へ落ち、抗う暇もなく沈んでいった。  目を覚ました視界に広がっていたのは、見慣れた自室の天井。  フェロモンの影響が抜けたのか、睡眠を追加でとったからか、妙に頭がスッキリしている。  そして身を起こしてみると着ていたはずの服が無い。肌には少しの鬱血と嚙み跡が散らばっていて、そろりと視線を動かした先にはスヤスヤと寝こける春真の姿。あちらもどうやら服は着ていないようだ。 「……やって、しまった、のか」  ずるずると頭を抱えた。  フェロモンでいっぱいいっぱいになっていたのだ。あの後、恐らく部屋に連れ戻された後に限界を超えて襲いかかった可能性が高い。  何せ直前に嬉しい言葉を聞いた記憶がある。それを鵜呑みにしたであろう事は想像に難くない。  情けない。今までは記憶があった。春真を押し倒した事は何度もあるけれど、我を忘れて襲いかかったことはないのに。 「ん……せん、ぱい?」  ぐるぐると思考が迷走している最中だというのに、春真が目を覚ましてしまった。  ぼんやりとした顔で起き上がって、ぼんやりと目を擦って、ぼんやりとこちらを見て――ぎょっとした顔を浮かべる。 「あ、っ!? ご、あの、え、っと、これは、その」 「すまない……やってしまったようだ」 「いや、あの、オレっ」 「フェロモンの影響があるとはいえ、本当に申し訳ない……」  いつにもまして本当にダメだ。春真にまで気を遣わせてしまっている。  せめて記憶を飛ばしていなければ良かったけれど、綺麗さっぱりと何も記憶に残っていない。どんな無体を働いたのか把握できていない。  されたことを問うたところで、今の恋人から正確な答えが返ってくるかは怪しい。  ……いや、聞かなくて済む理由を探しているのだ。己が何をやらかしたのか、正確な事態を把握する事を恐れている。 「ち、ちがう、オレが」  慌ててフォローに入ろうとする春真がいじらしい。けれどその姿が、心に刺さって痛い。 「すまない。少し……一人にしてくれないか」 「だから!」 「すまない……」  上手く頭が回らない。今何を聞いても、きっと内容をきちんと整理する事は難しい。恐ろしくて思考を塞いでしまっている。  春真の顔すら、まともに見ることが出来ない。    しばらく沈黙が落ちていたが、分かった、と小さく呟く声が聞こえた。 「……落ち着いたら呼んで欲しい。話がしたいから」  そんな言葉と共に春真の手が手首を掴む。ちらりと見た顔は真剣な顔でこちらを見つめていて、真っ直ぐな瞳に気圧されそうになる。 「ああ……分かった」  何とかそう返事をしたものの、春真が話したいと言っている内容をつい邪推して。更に怖くなってしまって。   そんな自分から改めて連絡をする勇気など、どれだけ時間が過ぎても出てくるはずが無かった。

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