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1.あと一年で、何がしたいか

芳川颯斗(よしかわはやと)はその言葉に息を止めた。  火曜日の午後、四月も中旬を過ぎれば夏を思わせるほどの汗ばむ陽気だ。  けれどこの窓のない診察室は寒々としていて、まるで隔離された異世界みたいだった。たぶんそのせいでこちらを気遣うような医者の口調はどこか現実味を帯びていない。 「あのっ、えーっと……」  颯斗は言葉を探しながら、膝の上に置いた学生鞄の持ち手を握りしめた。ネクタイを締めた首元が苦しくなって、思わず緩めて喉を鳴らす。 「どうか希望を捨てないで、我々も手は尽くします」  思慮深い医者の声音を聞いた途端、隣で堪えきれなくなった母親が肩を震わせ嗚咽した。  颯斗はぽかんと唇を薄く開き、ハンカチに顔を埋めた母親に目を向けた。その膝に手を置いてやると、母は縋るように颯斗の手を握った。 「先生、あの、えっと、俺……あと、どのくらい生きられますか?」  颯斗がそう問うと、医者は身構えるように姿勢を正し、カルテをデスクの上に置いた。そして眉を寄せ、「あくまでも最悪のケース」であることを前置きした上でこう言った。 「一年ほどかと」  肩に母親がしなだれた。その体が崩れ落ちないように、颯斗は腕を回した。  母は余命宣告された颯斗本人よりも、よほど動揺を見せている。  颯斗が六歳の時に父親と離婚して以来、二人きりの家族だった。 「いち、ねん……」  颯斗は呆然と呟いた。  経済的に余裕もないなか必死に塾に通わせてくれた母親に報いる為に、学費の安い近隣の都立高校を受験した。  都立の中でもトップクラスに偏差値の高い学校だったが、颯斗はどうにか合格を掴み取り、通い始めたのが一年前。  今は二年に進級したばかりで、そろそろ卒業後の進路について考えなければならないところだった。  それが一転、余命一年ときたものだから、颯斗の頭は混乱した。  あと一年で、何ができるか。  あと一年で、何をしたいか。  颯斗は自らの肩で震える母に目を落とした。  自分がいなくなったら、母親は一人になってしまう。  そう思ったところで、ようやく颯斗の目から涙がこぼれ落ちた。

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