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10.せんぱいだって(3)
いつの間にか距離を詰めた男が颯斗のスマホを持つ手を掴んだのだ。その反動で、また颯斗はスマホを手放し落としてしまった。
「あ、あのっ、大丈夫です、ほんとに、は、離してくださいっ!」
颯斗は焦って腕を引くが、掴んだ男の力が強い。
「いや、こういうのはお互い様だよ。俺も君見てたらなんか辛くなってきちゃったし、ちょっとだけやろう? ね?」
「あ、ほ、ほんとに、やめてくださいっ!」
颯斗は腕を振った。
しかし、それでも男は手を離そうとしない。
少し大きく身じろぐと、体調不良のせいでまた視界がぐらついた。
「|Kneel《ひざまずけ》」
男の口元が動き、颯斗は膝から力を奪われたかのように汚いトイレの床に崩れ落ちた。
男の顔を見上げる。口元はニヤつき、目元はモラルを失っている。
「|Good boy《よくできました》、よく見るとかわいいね君。高校生くらいかな? 近くにゆっくりできるとこあるから、そこいこっか」
男が颯斗の手を掴んだ。
「ほ、ほんとに、イヤです、やめてください!」
Domから受ける支配の中で、颯斗は必死に絞り出した。
しかし男は「|Shush《静かに》」とコマンドを紡いで口元に指を立てる。
颯斗の喉奥が締まり、全身が震え出した。
声が出ない、立ち上がれない、動けない。
恐怖が大きいはずなのに、そのどこかに見知らぬDomに支配される快感を覚える自分がいて、それがとてつもなく不快だと言うのに手放し難い。
気持ちと本能がちぐはぐで、颯斗は混乱したままガクガクと唇を震わせていた。
「おい!」
不意に背後から声がした。トイレの入り口の方だ。その声だけで、颯斗はそれが誰なのかわかった。
善が颯斗と男の間に割り込み、男の手を掴んで引き離した。
「何してんだ」
善が男を睨み上げると、男はたじろぎ後ずさった。
善のグレアが颯斗にも降り注ぎ、頭の後ろが恐怖で冷たくなっていく。
「な、なんだよ。具合悪そうだったから介抱しようとしただけだって」
男は誤魔化すように笑いながら、両手を体の前で振って見せる。
そして善に背を向けないように警戒しながら、トイレの外に立ち去っていった。
颯斗は善のグレアと中途半端に終わった見知らぬDomからのコマンドのせいで息が上がり、激しい動悸で肩を揺らしていた。
「大丈夫か?」
こんなに汚いトイレなのに、善は膝をついて颯斗の肩に手を置いてくれた。颯斗はその善の腕を縋るように両手で掴んだ。
「せ、せんぱいっ、ご、ごめんなさい……!」
「は?」
「い、イヤだって、ちゃんと、い、言ったんです、でも、だ、ダメで……ご、ごめんなさい!」
颯斗は混乱していた。
その目からは涙が溢れ出し、呼吸もさらに苦しくなった。
「ご、ごめっ、ごめんなさい……す、すみまっ……」
「わかったわかった、大丈夫だから」
善は颯斗の体を抱き寄せると、宥めるように背中をさする。颯斗はその善の肩に縋り付くように顔を埋めた。
呼吸は戻らない。まだ、苦しい。
「これ、ドロップしてんな」
耳元で善が苦々しく呟いた。
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