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32.グレア(2)
マンションのエントランスに差し掛かり、オートロックの前で立ち止まる。
颯斗が酩酊したままごそごそとポケットの鍵を漁っていたとこれで、急に隣の翔太が息を飲んだ気配があり、次に肘で体を小突かれた。その反動で、颯斗は手にしていた鍵を床に落としてしまう。
「何すんの、翔太」
そう言いながら、颯斗は翔太に捕まりながら鍵を拾い上げた。そして顔を上げると、その視界の先に人がいる。
「せん、お、大崎さん?」
酔いで焦点が合いづらく、颯斗がその人物を認識するまで少し時間がかかってしまった。
「あ、こ、こんばんは!」
颯斗はふらつきながらも姿勢を正し、頭を下げた。
善はスーツ姿でネクタイを締めている。ずいぶん遅い時間だが、残業か、もしくは仕事終わりに誰かと飲んだ帰りかもしれない。
「どーも」
善は短くそう言うと、無表情のまま翔太と颯斗に交互に目をやった。
その瞬間だ。颯斗の視界がぐらりと揺れて体を押さえつけられるような重たい感覚が降り注いだ。危うくバランスを崩しそうだったところを、咄嗟に翔太が支えた。
グレアだ。と少ししてから理解した。
その後で、颯斗は先日の善の言葉を思い出した。「Domだから独占欲が強い」と彼は言っていた。翔太といるこの状況を誤解されたのかもしれない。
「あ、あのっ……」
颯斗が言葉を発すると、善がこちらに向けた視線がさらに重苦しいグレアを発した。Domのグレアは意図して発すると言うよりも、強い感情が表に出てしまうようなものだ。
つまり、善は怒っている。颯斗の手が震えた。
「すみません、違うんです」
颯斗に変わって言ったのは翔太だ。
翔太はDomだが、たぶん自分よりランクの高いDomである善のグレアに少なからずストレスを感じているようだった。
「違うって?」
善の声は落ち着いていて、むしろ恐怖を助長した。
「飲んでて、こいつ酔っちゃったから送っただけなんです。俺、もう帰るんで」
翔太は状況を収めようとしてくれているようだった。
「しよう、とか、帰んないで、とか聞こえたけど」
善が言うとびくりと翔太の体が揺れた。
「き、聞き間違いじゃないですかね? あはは、と、とにかく俺帰るんで、あの、あとお願いします!」
翔太はそう言うと、支えていた颯斗の体を善に預けた。最後に耳元で「頑張れよ」とだけ言い残すと、軽く肩を叩いて「それじゃ」と作り笑いを善にむけ、そそくさと立ち去っていった。
「えっと……お、大崎さん……」
「どんだけ飲んだんだよ、歩けるか」
「あ、は、はいっ」
まだ少しビリビリとしたグレアを感じるが、善は颯斗の体を支えてくれた。怒りが収束しているのかもしれない。
まだ震える体をなんとか動かして、颯斗は善が呼んでくれたエレベーターに乗り込んだ。
多分まだ誤解は解けていない。セフレである翔太を部屋に呼ぼうとしていたと思われたに違いない。
この際、翔太とはもともとそういう関係ではないことを打ち明けるべきだろうか。嘘をついていたことを知ったら、善は更に怒るかもしれない。
そう考えているうちに、颯斗は部屋の前にたどり着いていた。
「あの、すみませんでした……」
とりあえず今日は酔いが回って頭もまともに働かない。善もまだグレアを発していて昂ぶっているようだし、明日落ち着いて考えを整理してからきちんと話そう。そう思って、颯斗は善に頭を下げて自宅の玄関のノブに手をかけた。
善が強く手を引いたのはその瞬間だった。
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