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第二部 兄が来た! 6
卯乃が次に目が覚めた時には人型に戻っていた。きちんとパジャマに身を包んでいたのはきっと兄が着せてくれたのだろう。部屋はすっかり暗く、見上げた時計はもう夜の九時を過ぎていた。
(もう絶対練習終わってる。深森が連絡くれてるかも。スマホ……、下かな)
まだ頭がどんより重たくて喉もからからだ。身体を起こした拍子にけほけほっと咳き込む。頭がぼーっとする。ついに熱が出てしまったのかもしれない。
(最悪だ……。明日の試合、絶対に見に行きたいのに。とりあえず深森に連絡して……。何ていおう。体調が良くなくてなんていったら深森うちまで心配してきちゃうかもだし、明日までに気合で直せば午後の試合には間に合うかも)
耳をくしくし、目をこしこししながら階下へ降りていく。すると階段の下に青い顔をした兄がすっとんできた。
「卯乃!」
兄の咎めるような声色に負けず、ちょっと頑固なところがある卯乃は足元がおぼつかない癖に手すりに縋って下に降りようとした。だがふらついてバランスを崩してしまう。
「危ない!」
階段の途中で卯乃の背中を力強く抱き寄せられ、兄の腕の中に囲われた。
「そんなフラフラしながら降りてくるんじゃない。階段から落ちたら大怪我するだろ。ご飯上に持っていくから部屋に戻りなさい」
ぎゅうっと抱きしめられて、焦った声を出す兄に流石に申し訳なくなった。卯乃は兄の胸に頭を寄せてしゅんっとして動きを止める。
「ス……」
スマホを取ってきて欲しい。
声がしゃがれて上手く出ない。だが察しの酔い兄は直ぐに弟の言わんことを分かったようだ。
「スマホか?」
耳が揺れるほど頷く。頭をふったらくらくらしてしまった。だがきっと深森は卯乃の連絡を待っているはず、どうしても連絡が取りたい。
「僕がとってくるからお前は布団では大人しくしていなさい」
脇の下から腕をいれられ、半ば抱えたまま二階まで戻されてしまった。兄は細身に見えるけれど運動部出身で、今も見た目を気にしてジム通いをしているので力持ちなのだ。兄は部屋の電気をつけ、卯乃をベッドに腰かけさせた上、自分が着ていたカーディガンを卯乃の肩に着せかけてくれた。卯乃はそのままぼんやり、明日の試合に行けるとすぐに兄が片手にスマホ、片手に湯気を立てる粥の入ったお盆を手にしてやってきた。
「ほら、人参粥作ったぞ」
久しぶりの好物のお粥に顔がほころぶと兄も満足そうに頷いてくる。
「これ食べて元気になるんだ」
人参と大根、野菜のうまみが沁み込んだお粥は体調を崩した卯乃に家族が作ってくれる定番のお粥だ。
「身体起こせるか?」
こくんっと頷くと、兄は長い脚を持て余すようにベッドサイドに腰を掛けた。サイドテーブルに置かれたスマホが気になる。
しかし兄は身体をややひねりながら「あーん」と蓮華を卯乃の口元に差し出してきた。
流石に恥ずかしい。自分で食べられるとゼスチャーをしようと思ったけれど、もう色々抵抗するのも億劫になった。幼い頃から卯乃を見てきた、甘えたな性格を知っている人間に取り繕うことなど何一つない。
観念した卯乃が雛のようにあーんと口を開けると、兄は満足げな顔をして蓮華を運んでくれた。
ちょうどいい温度に冷まされた粥は滋味あふれる味わいだ。お粥を一口含んだら、何の前触れもなく、ぽろっと涙が零れてしまった。
「卯乃、身体辛いのか?」
自分でも泣くとは思っていなかった。卯乃はふるふると首を振る。
食器を置いた兄はティッシュを一枚引き抜くと、卯乃の涙をちょんちょんっと拭ってくれた。卯乃はそれを受け取って、ちーんと鼻をかむ。
(なんで涙なんてでちゃったんだろ。なんか情緒がおかしくなってる)
卯乃はこのところの自分の環境や行動を思い返してみた。
このところ朝晩急に寒さが増したことに体調がついていっていなかったこと、深森の試合に行けないかもしれないとふさぎ混むことが多かったこと、兎の姿になったら一人でどう生活すればいいのかと兎の姿から人に戻ったりを繰り返し、あれこれシュミレーションしては疲れ果てていたこと。そんな全てを忙しそうな深森には隠して元気に振舞っていたこと。心当たりを上げるときりがない。
その上久々に会いたかった兄が帰ってきてくれて、すっかり気が抜けてしまったのだろう。
「じゃあ、この男のせいか?」
膝の上におぼんを置いたまま、兄は怖い顔でスマホの画面を卯乃の前に掲げてきた。卯乃はびっくりしてとろんとしていた目を見開いてしまった。そこには深森からの通話アプリのメッセージや着信の履歴がびっしりと画面を埋め尽くしていたからだ。
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