75 / 92
第二部 兄が来た! 8
ただ眠っているだけならばいい。だがそうでなかったら? 体調が悪化してしまっている可能性もある。慣れない一人暮らしで苦しんでいるのならば、傍に行ってあげたいと思うのはいけないことなのだろうか。
(思い出してみると、目がいつも以上に潤んで見えた気がするし。少し声がかすれ気味だった気もする。明日は新人戦の決勝だから見に来て欲しくて、楽しみにしているといわれたから、来いよっていってしまった。本当は無理させないように伝えればよかったのに、来いよなんて言われたら卯乃は絶対応援にくる。だが無理してきて風邪を拗らせたら良くない。見に来るな、家で休んでいろっていうのを、もっと優しく、傷つけないように、誤解されないように、直接うまく卯乃に伝えたい。俺は不器用だ)
口には出さないまでも、じーっと色々な思いを込めたまま熊田を見ていたら「ああ、猫の目力熱すぎる! 分かったから一回様子を見てこい。門限遅れるなよ」と言われて肘で脇を小突かれた。
友人の言葉にこっくりと頷き、立ちあがった深森は残りの牛乳をごくごく飲み干すと、パックを手の中でぎゅうっと潰してゴミ箱の放りこむ。
「行ってくる。夜中までに帰る」
日中よりぐっと気温が下がった外は、冬に近い冷たい空気と冴えた風の匂いがした。湯冷めしないように雪国である実家で着ていたコートを羽織って自転車に飛び乗る。
慣れ親しんだ卯乃の家まで続く道のりを走るたび、宵に少しの不安と沢山の期待と、それでも押し殺そうと秘めた恋心を胸に卯乃の元へ向かった、あの夏の宵を思い出す。
卯乃に出会うまで、サッカー以外に自分をこれほど駆り立てるものがあるとは知らずに生きてきた。例えば大切な試合の前日に、わざわざ身体を冷やすような真似をしてまで恋人の顔を一目見たくてたまらずに寮を飛び出すなんてこと、自分がするとは思わずにきた。心に色々な感情が渦巻く。それは主に後悔だった。
(試合を見に来て欲しくて、卯乃が自分から体調が良くないと言い出さないから聞かなかったなんて、恋人として失格だ。本当に気が利かない男だな、俺は……)
自分が体調を崩した初夏の頃、卯乃は何度となく深森を気遣って寮まで顔を見に来てくれた。食べやすい食事、好物はあるかと聞いてくれて、わざわざ作って持ってきてくれたこともある。
深森の母からレシピを送ってもらった中にあったのが、昼間卯乃が持ってきてくれたスープだ。
体調が優れない中作ってきてくれたのかと思ったら。申し訳なさと自分の至らなさで苦しくなった。深森はハンドルを握る手に力を込めて、自転車を漕ぐスピードを加速させた。
(卯乃の好物、甘いものとかキャロットプリンぐらいしか差し入れたことがない。卯乃はいつだって俺の身体の事を気遣ってくれていたのに。俺も卯乃が何を食べたら元気が出るのか聞いておけばよかった)
ともだちにシェアしよう!