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第5話

 「航ってモデル休業しているんじゃなかったけ」  「そうそう。一身上の都合だって聞いたから病気かと思ってたんだけど」  「私も思った! でも大学には普通に来てたし、大したことじゃないのかもね」  「それって本当?」  後ろでひそひそと話していた女たちに声をかけると、目を輝かせて聞いてもないことを語り出した。  「人気が出始めたときにいきなり休業して、すごい話題になったんだよ。急な話だったから痴情のもつれじゃないかって噂」  「だけどうちらラッキーだよね。どんな理由にせよ、航が撮れるんだから」  「だよね」  女たちと同様スタジオ内は航を撮れるという独特の高揚感に満ちていた。教授も生き生きと指示し、いつもより声を張り上げている。  ただ航だけが下を俯いたまま小さくなっていた。  壁も床も白に統一された場所に案内された航は置物のように動かない。ライトを当てられて、カメラのレンズが一斉に航に向けられる。記者会見のようにパシャパシャとフラッシュが瞬いた。  それでも航は顔を上げない。  「じゃあ撮影を始めるよ。佐倉くん、準備はいいかい?」  教授が声をかけても航は唇を引き結んだままだ。下ろされた両手の拳が白くなるほど握られている。  ライトを浴びた肌はより一層色を失い、白を通り越して消えてしまいそうだ。  「どうした?気分でも悪いか?」  「……すみません。やっぱり無理です」  「それはどういう……ちょっと待ちたまえ!」  教授の制止を振り切って航はスタジオを飛び出した。脱兎の如く素早い航を誰もがぼんやりとしたまま見送るしかない。突然のことでスタジオ内はしんと静まり返ったが、一拍置いて隣にいる人と会話を始め、ざわざわと声が広がる。  「どうしたんだろ」  「私たちが撮るの嫌だったのかな」  あちこちから憶測が飛び交い、みんなの視線は航が消えた方角へ向けられた。教授も呆然としたまま思考が停止している。  伊織は反射的にスタジオを出て、航の後を追った。  廊下の突き当たりにある非常階段を覗くと、膝の間に顔を埋め隅っこに座っている航の姿を見つけた。  伊織は驚かさないようにできるだけ小さく声をかける。  「大丈夫か」  大袈裟に肩が跳ねたが航は伊織をみやると、また膝の間に顔を埋めた。長い手足をコンパクトにまとめ、さらに小さくなる。  二メートルほど距離を空けて伊織は隣に腰をおろす。ずるずると航が洟をすすっている音が聞こえる。どうやら泣いているらしい。  そんなに嫌だったら断ればよかったのに、と思ったが教授に直接頼まれてノーと言える学生は多くないだろう。  「すいません。俺のせいで実習が台無しですよね」  「大丈夫だろ。元々予定してたモデルが来れなかったのが悪いし、おまえに非はない」  「でも」  航は自分が悪いと繰り返し、これ以上ないほど身体を丸くさせている。まるでダンゴムシみたいだ。  「きっと今頃誰かがモデル役をやって、実習してるだろ。だからそんなに気に病むことじゃない」  「代打だとしても頼まれたから……俺のせいだ」  うじうじする人間は嫌いだ。物事は白か黒かはっきりさせたい性分なので、航のカビが生えそうな態度にはイライラする。  「面倒くさいやつだな。大丈夫だって言ってんの!おまえは悪くない、わかったか!」  伊織がぴしゃりと断言すると、目元を赤くさせた航は呆気にとられたような表情をした。  初めて見たときに感じた機械的なものではなく、血の通った人間らしい表情だった。  「……はい」  「おまえって後ろ向きな考え方だな」  「そうなんです。駄目ですよね」  航は膝の上に顎を乗せ、まっすぐ前をみた。  外はまだ雨が降っている。  「嫌なら最初から断ればよかったんだ」  「嫌じゃなかったんです。本当は声をかけてもらえて嬉しかったんですけど、怖いんです」  「なにが?」  「カメラのレンズが人の目を大きくさせたようにみえるんです。よくアニメで望遠鏡を覗いたらレンズに目が映るみたいな。あんな風にみえて、怖くて仕方がないんです。って初対面の方に言っても困りますよね」  すいません、と付け加え航は立ち上がろうとしたが伊織は押しとどめた。  「迷惑じゃないって。ほら、悩みとか辛いこととか赤の他人に話す方が気が楽って言うだろ」  「でも……」  「それに俺はおまえを無理矢理撮ろうとした奴だ。気なんて使うな。俺は細かいことは気にしないし、大抵のことはすぐに忘れる」  「先輩はやさしいですね」  「そんなこと初めて言われた」  一度決めたら絶対に譲らない伊織を周りは煙たがり、友人と呼べる人などいなかった。  悪く言えば頑固な性格は敵をつくりやすく、孤立することが多い。そんな伊織をやさしいと評価する人間は初めてだ。  嬉しいようなこそばゆいような不思議な気持ちになる。  「おまえはモデルなんだろ」  「いまは休業中ですけどね」  「レンズが怖いのに、どうしてモデルなんて始めたんだ?」  「それは……」  航は記憶の糸を辿るように遠くをみやった。  「渋谷でたまたま写真を撮られたんです。そしたらそのとき撮った写真が話題になって、そのままモデルに当時はカメラが怖いとは思わなかったです。ただ言われるがままに着替えてポーズとって、まるで人形の気分でした」  これだけの美形を撮れたらカメラマンもやりがいがあるだろう。最初にみたときの衝撃はいまも身体に残っている。身体を掻き毟りたくなるような撮りたいという欲求。  「俺は逃げ出した人間です。だけどもう一度カメラの前に立たないといけないんです」  「どうしてそこまでやる?」  「……言えません。でもやらないと駄目なんです」  水を含んだ瞳から強い意志を感じた。さっきまでレンズが怖いと泣いていたくせに、揺るぎのない灯火がゆっくりと火力を強くしている。  けれど恐怖に身体がすくむのか、肩が小刻みに震えていた。  この瞬間を撮りたいと思った。涙で顔がぐしゃぐしゃで格好良さのかけらもないが、繊細だけど芯のある姿は魅力的だった。  「じゃあ俺が練習台になってやるよ。違うか、おまえが慣れるまで撮ってやる」  「でも、俺は……」  「でももくそもない。俺はおまえを撮りたいし、おまえはレンズへの恐怖をなくしたいんだろ? 利害は一致してる」  伊織の力強い言葉に逡巡していたが、航はこちらに身体を向けて小さくお辞儀をした。  「ご迷惑じゃないですか?」  「いい加減キレるぞ」  ぎろりと睨みつけると、航の肩は跳ねたがすぐに頭を下げた。  「不束者ですが、よろしくお願いします」  「嫁にくるような台詞だな」  そう返すと航は小さく笑った。  どんな理由があるにせよ、航を撮れることになったのだ。頭の中で構図が次々と浮かび上がり、伊織は待ちきれない気持ちで航を眺めた。

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