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十 デートの余韻

 アオイのいう『デート』は、二人でケーキを食べただけで解散となった。八木橋は仕事があるし、アオイは大学がある。短い時間だったが、その時間はやけに濃密だったように思う。 「ふぅ……」  店のモップ掛けをしながら、八木橋はアオイのことを思い出していた。穏やかで、素敵な時間だった。だが、とても刺激的でもあった。普段ならケーキを三つ四つと食べてしまう八木橋だが、今日は一つだけで満足してしまった。誰かと何かを共有する時間というのは、一人で楽しむよりもずっと濃厚だ。 (また、近いうちに……か)  本気だろうか。本気なのだろう。  どうしてアオイが付き合ってくれるのかは分からないが、八木橋にとっては悪いことじゃない。これまで、一緒にスイーツを食べてくれるような友人はいなかった。仕事以外の時間を一緒に過ごしてくれるような人もいなかった。 (いや――…)  正確には、『いた』。もう三年ほどまえのことだが、結婚まで考えた女性が居た。だが、上手くいかなかった。元々消極的なタチではあるが、それから余計に酷くなったように思う。自分は今年三十七歳で、もう三年もすれば四十だ。いつまで店にいられるかは分からないが、恐らく普通の会社員のように、『定年』のような概念はない。八木橋自身がやめようと思ったことはないが、店がどうなるかは分からない。もし、店がなくなったとしたら、八木橋は別の店で働くことはもう出来ないだろう。経験があっても、四十男を雇う店があるとは思えないからだ。 (その時は、昼の世界に戻るんだろうか)  そんな考えは、この二十年ずっと思いながら生きて来た。そう思いながら、昼の世界に戻る自分を、想像することが出来なかった。八木橋は真実、この街にも店にも、根差していないのかも知れない。家族もいない、やりたいこともない。ただ、生きて来てしまった。好きなことと言えば、甘いものを食べることだけ。八木橋はそういうものを、静かに受け入れて生きて来た。  変化についていけないものは、淘汰される。八木橋はそれを知っている。自然界において、変化に適応出来ないものは、次世代で生き残ることは出来ない。八木橋も同じだ。都会の中にあって、ゆっくりと生きる八木橋は、時代の変化についていけていない。いずれ世界に置いてけぼりにされて、都会の片隅で朽ち果てていく。そう言う生き方を、長いことして来た。  そんな代り映えのしない人生で、アオイは一つの小さな変化だった。幾つになっても、出会いはあり、友人は出来る。そう言うものなのかもしれない。 (案外、人生は悲観的にならなくても良いのかも知れない)  もっとも、八木橋はあまり悲観的になったことはないのだが。  自分に自身はないが、八木橋は「それなり」の人間だと思っている通り、何が起きても大抵は「そういうものか」と済ませてしまう。だから、嫌なことがあっても、辛いことがあっても、「そういうもの」として生きて来た。波風がないのは、生き方のせいもあるだろう。新しいことをすることも、新しいものにチャレンジすることも、ずっとしないで生きて来た。波風がなければ、そうそう悲観的になることも起こらない。  モップ掛けをしながら、八木橋は店を見回す。十年。『アフロディーテ』を見守って、十年だ。入れ替わりの激しいこの街で、十年も続く店は珍しい。この店も自分も、随分古くなったっと思う。 「まだまだ、新しいことが起こるものだね」  町は変わった。風俗店は数を減らし、クラブやキャバレーは形を変える。閉めた店も多く、去ったものも多い。ネオンがひしめく路地は綺麗に整備され、大きい通りには巨大なビルも建てられた。妖しい看板の店たちは町の端に追いやられ、徐々に居場所を失っている。これからも、変化は起こるのだろう。その変化を受け入れながら、八木橋たちも生きて行く。  町が変わるのを、寂しいと思っていた。変化を、苦手に思っていた。新しいことは、自分には関係がないと思っていた。置いていかれる。置き去りにされる。そう、思っていた。  けれど、どうだろうか。  八木橋は、新しい出会いに、ワクワクしている。変化に、面白いと思っている。そんな感情が、まだ自分のなかに残っていたことに、驚いている。 「アオイくんの店にも、行かないとね」  約束した通り、アオイのバーにも行ってみよう。突然行ったら、驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。あの蠱惑的な笑みで、笑ってくれるだろうか。  アオイの店に行く。それだけで、何故だかワクワクしている自分がいた。

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