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十二 夢のあと

 カーテンの隙間から光がこぼれる。ベッドまで延びた光に瞼を擽られ、八木橋は薄く瞳を開いた。 「ん……」  寝ぼけまなこで時計を見ると、午前九時を回っていた。どうやら、大分眠りこけてしまったらしい。 「んーっ……!」  のそりと起き上がり、伸びをする。ふぁと欠伸を吐き出し、強張った身体を伸ばした。年齢を重ねるにつれて、寝て休んだはずなのにどこか身体が痛い気がする。 「ん、よく寝た……。昨夜飲んだせいかな」  いつもより、深く眠っていた気がする。幾分スッキリした気分でカーテンを開けた。窓を開けて空気の入れ替えをしながらスマートフォンを見ると、メッセージが入っている。アオイからだった。 『昨夜は来てくれて嬉しかったです。またいらしてください』  とつづられたメッセージに、思わず口元が緩む。社交辞令だとしても、嬉しかった。八木橋は「また必ず行くね」と返信して冷蔵庫を覗き込んだ。 「あー、これ買ったまま忘れてた……。もう賞味期限切れてるじゃん」  クラブの女の子たちに勧められて買ったおかずの瓶が、気づけば賞味期限が切れていた。買った直後は覚えていてちゃんと食べるのに、数日開くと忘れてしまう。ちゃんと食べきった試しがないなと思いながら、中身を捨てて瓶をすすいだ。 「これも片付けないと……」  気づくとすぐ、ゴミばかりが堪ってしまう。我ながら無駄な事ばかりしていると思うが、なかなか直る気配がない。一人暮らしのマンションは、生活感に溢れている。昨夜はあんなに素敵な夜だったのに。現実とのギャップが大きかった。 (『アフロディーテ』に来るお客様も、夢を見に来てるんだよなあ……)  そういう意味で、『ムーンリバー』も同じなのだろう。客に一夜の夢を見させてくれる。 「ふう。今日はもう、現実だ。頑張って働かないとな」  また今度、夢を見に行こう。スイーツだけが楽しみだったが、新しい楽しみが出来たのは嬉しいことだ。  ◆   ◆   ◆  ガラス越しに展示されたマネキンの衣装を見ながら、八木橋は「ううむ」と唸り声を上げた。百貨店は平日でも人の入りが多い。最近は外国人観光客も多いように感じる。 (うーん。こういう服、持っていても良いのかな……)  ここ数年、服を新調していない。先日アオイとデートしたときもそうだが、バーに行くときも服装に苦労してしまった。オシャレな服とは言わなくとも、何か新しくて綺麗なものを着ていた方が良いような気がする。 「思い切って買ってみる……?」  そう思いながら、踏ん切りがつかずに、店の中にも入れずにいる。八木橋は接客を受けるのが苦手だ。勧められるほどに、何が良いのか分からなくなってしまう。かといって、確固たる自分の意志など存在しないため、選ぶことが難しい。 (どうしようかな。誰かに相談しようにも、僕には知り合いも居ないし……)  アオイの顔が頭を過ったが、なんとなく気恥ずかしい。アオイに服を気にしていると知られるのも、なんだか憚られた。  今日は、出勤前に買い出しのため百貨店へとやって来ている。あまりのんびり買い物をしていると、出勤時間に間に合わなくなる。また今度にしようかと、店の傍を離れようとした時だった。 「あれ。八木橋さん?」 「ん?」  呼び止められ、振り返る。学ラン姿の若い青年が立っていた。まだ幼さが顔に残っているような気がして、八木橋は思わず口元に笑みを浮かべる。 「紫苑」 「こんにちは。買い物ですか?」 「まあ、そんな所。紫苑は学校帰り?」 「ええ」 (そっか。高校生だったな……)  時の流れを感じて、感慨深くなる。八木橋が最初に紫苑と会った時は、まだ小学生だった。次に会った時は中学生だった。会うたびに成長し、少年から青年へと一気に時を進めてしまっているようだ。紫苑は八木橋の背をとうに追い越し、身体もだいぶ大きくなってしまった。 「高校何年生になったんだ?」 「三年生です。十八歳ですよ」 「もうそんなか。って、バイト、大丈夫なのか?」  八木橋の言葉に、紫苑は微妙な顔をした。大丈夫というわけではないようだ。 「勉強はなんとか、ギリギリ。母さんに負担を掛けたくないし、定期代だけでも稼ぎたくて」 「紫苑は親孝行だなあ」 「それにケーキ屋のバイト、余ったケーキ持って帰らせてくれたりするんです」  そう言って、ニカッと歯を見せて笑う。その笑顔に釣られるように八木橋も笑った。 (ネネさんは元気――と、聴くのもな……)  紫苑の母親は、『ネネ』という名で『アフロディーテ』で働いていた女性だ。シングルマザーで、小学生の紫苑を育てながら働いていた。その後、昼の仕事と新しい夫を見つけて『アフロディーテ』を出て行ったが――数年後、『アフロディーテ』に戻って来た。離婚して、再び夜の仕事を始めたのだ。そんな彼女も、また昼の世界で働いている。近況は気になったが、自分が気にするのは違うと思った。  紫苑の様子に、大人になったのだと思う。母親の負担にならないようにバイトをして、手土産にケーキを持って帰る。そんな、親孝行な青年になったようだ。進路をどうするつもりなのか、八木橋が口出しすることではないので聞かなかったが、高校三年生のバイトというのは少し気になった。進学する気はないのだろうか。八木橋は自信が二浪し、中退したため少しだけ気になった。 (まあ、18日歳――今は成人なんだっけ? もう、大人だもんな) 「あ、お引き留めしてすみませんでした。お仕事、今からですよね」 「ああ。そうなんだ」 「今度また、ケーキ買いに来てください」 「うん。そうするよ」  挨拶を交わし、別れる。紫苑の別れ際の笑顔は、年相応の少年だった。

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