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十六 見えぬ心

 どうやって店までたどり着いたのか記憶にない。気が付けば八木橋は、『アフロディーテ』でモップ掛けをしていた。頭の芯が、いまだにぼーっとする。まるで、熱があるみたいだ。床を清掃し、テーブルを拭いて、灰皿を綺麗にする。そんなことをしていても、まだ八木橋はボンヤリしたままだった。  女の子たちが出勤してきて、ポーっとした様子の八木橋を訝しむ。美鈴に「風邪でもひいたの?」と心配されてしまったりもした。 (キス……してしまった)  事務所の机に突っ伏して、八木橋は頭を抱える。顔が熱い。未だに、心臓がバクバクしている。まさかとか、どうして自分がとか、そんなことを考えるも答えが出るはずもなく、ただ動揺して、ぐるぐると頭の中を搔き乱す。  アオイと自分では、だいぶ年齢が違う。自分は三十七歳で、アオイは二十四歳だ。しかも大学生である。あまりにも不釣り合いで、しかも、どうして自分なのかが解らない。自分は|イケてる《・・・・》方ではないし、男としての魅力があるとは思っていない。結局は「どうして自分が?」という疑問に立ち返ってしまい、またぐるぐると頭の中を搔き乱していく。 「……」  ふと、入り口に立てかけた傘を見る。アオイが持たせてくれた傘だった。 (……つまり、アオイくんは、僕と、どうにかなりたいということ?)  どうやらアオイは、自分とキスをしたいらしい。というか、された。しかも『キスだけで許してあげます』と言っていた。つまり、キス以外もするつもりらしい。 (キス以外って……)  想像して、ボッと顔から火が出る。知識として、男同士の性行為がどんなものであるのかは、知っている。この街にはそういう性風俗の店もあるし、前のオーナーである佐竹の持つ店には、ゲイ風俗の店もあったはずだ。 (つまり、僕と――って、ことぉ!?)  そんな風に見られていたという事実に、驚きとショックを隠せない。動揺して、思わず立ち上がったり座ったりを繰り返す。久しく感じていなかった、恋愛事。もう三十七の八木橋は、今更こんな感情を思い出すとは思っても見なかった。 「……どうしたら、良いのかな……」  突然、想いもがけないことが起こって、頭がパンク寸前だ。毎日、何も変わらない、平穏な日々を暮らしていたのに。突然目の前にやって来て、あっという間に八木橋の中で代えがたい存在になって――心を搔き乱していく。  長い人生の中で、こんなにも悩んだことがあっただろうか。次に会った時、アオイはどんな顔をするのだろう。そして自分は、どんな顔をすれば良いのだろうか。  立てかけた傘を眺めて、八木橋は深いため息を吐き出した。  ◆   ◆   ◆ 『店が終わったら一緒に帰りましょう』  というメッセージに、八木橋は顔を赤くして唇を結んだ。あんなことがあって、平然としていられるわけがない。借りてしまった傘を返すという理由はあったが、どんな顔をして会えば良いか分からない。  売り上げの入ったバッグを手に、店の外へと出る。雨は上がっていた。傘を片手に路地を歩きながら、溜め息を吐く。こんな気持ちでもう一度アオイに会える気がしない。だが、断る理由が見つからない。既にメッセージは既読を着けてしまって、メッセージを見たのに返信していないのは伝わっているはずだ。 (どうしよう……)  もう一度溜め息を吐き、女神グループの入るビルへ向かう。その途中、知っている顔を見つけて、八木橋は会釈をした。向こうもこちらに気づいたらしく、苦笑して近づいてくる。 「お久しぶりです」 「どうも。どう、『アフロディーテ』は」  そう言ったのは、金色の髪をした吉田という青年だ。萬葉町周辺を|シマ《・・》にするヤクザ『白桜組』の構成員であり、以前は『アフロディーテ』の用心棒のような立場でもあった。前のオーナー佐竹がヤクザから足を洗って以来、『アフロディーテ』は『白桜組』とは関わっていない。 「お陰様で、なんとかやってます」 「敬語はやめてよ。八木橋さんのほうが年上なんだし」  そう言って笑う吉田は、アオイより少し年上という所だろう。三十は超えていないはずだ。八木橋はチラリとビルに視線をやった。もしかして、佐竹に用があるのだろうかと思った。だが、それは本人から否定される。 「あ、そういうのじゃねえよ。むしろ、俺らがうろついてたら、関係を疑われちゃうし。マジで偶然。たまたまってヤツ」 「そ、そうですよね」  まだ青年という年齢と、ラフなファッションのせいで、吉田はあまりヤクザという風体ではない。そのため八木橋も気安く話しかけてしまったが、現実には反社会的勢力の構成員なのだ。慌てて背筋を伸ばす。その様子に、吉田は苦笑した。 「たまたま、そこのホテル待ち合わせになっちゃったからさ。こっちも、佐竹さんに会ったら気まずいから、ね」  雑居ビルの向かいには、ラブホテルがある。「ああ」と納得して、八木橋も困ったように笑った。 「それは――すみません、声をかけちゃって」 「いや、良いんだ。もしかしたらすっぽかされたかも。一時間待ってるんだけど」 「えっ!?」  驚いて見せると、吉田は「まあ、あるんだよね」とあっけらかんと答える。 「そんな……」 「他に良さそうな子見つけたんじゃない? 金髪、タトゥーアリだと委縮するヤツ多いからさあ」 「――恋人、じゃないんですか」 「ん? マッチングアプリだよ?」  てっきり恋人にすっぽかされたのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。最近の若い子はそうなのかと、驚いていると、吉田は察したらしく首を振った。 「仕方ねえよ。俺らみたいなゲイはさ。こんな街でも出会いなんか少ないし」 「――え。あ、そう、なんですか」  吉田がゲイだと知らなかったため、驚く。吉田はあっけらかんとしたものだ。 「まあ、ワンナイトラブってやつ? そんなのばっかり。今日はもう帰るかーっ」  背伸びをして、吉田はそう言うと路地の向こうへと消えていく。その背を見送って、八木橋は立ち尽くした。 (ワンナイトラブ……)  そういうものなのか。そういうものなのだ。 (じゃあ、アオイくんも……?)  思い返せば、アオイに「好き」だとか、「付き合いたい」などと言われた記憶はない。ただ、甘い声で甘い誘いをかけられただけで、それがどういう意味なのかを、伝えられはしなかった。 (そう、なのか……)  アオイの気持ちの重さを、測りかねる。アオイは、どういう意図で、八木橋にキスをしたのだろうか。  答えなど出るはずなく、八木橋は吉田が去ったあとの闇をずっと見つめていた。

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