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十七 揺れる想い

(別に、ショックを受けたわけじゃないし)  八木橋はそう思いながら、溜め息を吐く。結局、アオイに誘われたものの、言い訳をして断ってしまった。あのまま会うのは、どうしても気まずかった。そうすると、今度はどんな距離で接すれば良いのか解らず、八木橋はアオイを避けるようになってしまった。『ムーンリバー』へ行く足も遠のき、次第にメッセージの返事も減る。すると、アオイも毎日連絡があったのが、一日おき、三日おきと、回数を減らしていった。 (このまま、疎遠になるのは寂しいけど……)  胸がぎゅっと詰まるような、そんな感覚になる。アオイと話すのは楽しかったのに。どうして、こうなったのだろうか。  溜め息を吐いて、ソファに座って天井を見上げる。玄関の方に視線を向ければ、アオイから借りたままの傘が立てかけられていた。 「……僕はゲイじゃないし……」  ワンナイトラブといった、吉田の顔を思い出す。あれから、少しだけネットで調べてみたが、ゲイ向けの出会い系サイトに書き込まれた情報に、頭がクラクラした。自分の体形や容姿をアピールして、性的な誘いをかける様子に、血の気が引いた。こんな世界が、本当にあるのか。自分がいかに、何も知らなかったのだと思う。同時に、アオイもこんな風に誰かを誘っているのかと想像し、胸が痛くなった。  疎遠になりたいとは思っていないのに、一夜の関係など結ぼうと思えず、どうしていいか分からなくなる。アオイの気持ちも、自分の気持ちも、なにも解らない。自分は、どうしたいのだろうかとグルグル悩んで、また戻ってくる。  十歳若ければ、違っただろうか。アオイと同じような歳だったら、冒険しただろうか。それすらも、解らない。解るのはただ、アオイと話すのは楽しかったという事と、もう親しく話すのが難しくなるのかということだけ。 「傘……返さないと、な……」  ポソリ、独り言ちる。溜め息ばかり吐いて、答えは出なかった。  ◆   ◆   ◆  傘を手に、歩道を歩く。アオイにどう話しかけていいか解らなかったが、傘は返すべきだ。営業前の『ムーンリバー』へ寄れば、篠宮が居るかも知れないと踏んで、道を歩く。アオイに直接返すより、その方が良いはずだと言い聞かせ、店の前に立った。営業開始前のため、店は静かだ。昼間の通りは人通りも少なく、どこか雰囲気が違う。静けさはまるで、まだ眠っているかのようだった。  誰かいないか、どこが裏口か探していると、不意に路地の奥にあるスチールの扉が開いて、篠宮が出て来た。姿を見つけ、ホッとして近づく。 「篠宮さん」 「ん? ああ、八木橋さんじゃないですか。今から出勤ですか?」  同じような立場であるため、篠宮がそう言う。 「はい。今から『アフロディーテ』に向かうところで……」  お互い大変ですね、という表情をする。黒服たちも来るが、店長の篠宮と八木橋は、殆ど毎日、早く来て掃除や品出しを行っている。 「それで、あの。これ、アオイくんに借りて。返して頂けないでしょうか」  傘を差し出した八木橋に、篠宮は目を丸くし、困ったように笑った。 「直接返してあげて下さい。アオイくんに恨まれちゃいますよ」 「あ、いや……」  言い淀む八木橋に、篠宮は何か察したらしく、首を捻る。居心地が悪い。 「アオイくんと、何かありました?」 「っ! い、いやっ、そのっ……!」  否定しながら、顔が熱くなる。これでは、何かあったと言っているようなものだ。 「そのっ……、すみません、僕――」 「八木橋さん」  凛とした声で名を呼ばれ、顔を上げる。篠宮は見透かすような瞳で、八木橋を見つめた。 「アオイくんの気持ち、迷惑でしたら、すみません」 「えっ、そんなことは――」 「アプローチしていたのは知っています。八木橋さんが嫌な気持ちになったなら――」 「ちっ、違うんですっ。迷惑とか、嫌だとか、そういうのは……」 「そう、なんですか?」  カァと、顔が熱くなる。篠宮にすれば、店の従業員が客に迷惑を掛けたかも知れないのだ。気を遣ってくれたのだろうが、そういう訳じゃない。  アオイが嫌だとか、そういう気持ちは、一瞬もなかった。ただ、驚いて、戸惑って――遊びの関係を求められたのかもしれないと、ショックだっただけで。 「ただ、ちょっとびっくりしただけで……。アオイくんも、そんな本気じゃないだろうし」  そう言って、押し付けようとした傘を、篠宮が押し返した。 「アオイくんの気持ち、信じられませんか?」 「え?」 「――カクテル言葉って、知ってますか?」 「カクテル、言葉……?」  その言葉は、聞いたことはあるが、具体的には知らない。 「傘は、また後で持ってきて下さい。ね」  穏やかな笑みでそういう篠宮に、八木橋はそれ以上、傘を押し付けることは出来なかった。

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