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DISC 02 / TR-18 - Both Sides, Now
ユーリは唐突に目を開けて白い天井を暫し睨み、ソファに深く預けていた躰を起こした。緩慢な動作で時計を見、次にベッドの上のテディを見る。時刻は一時少し前だった。昼かと思った途端に空腹を感じ、ようやく気分や体調が平常に戻ってきたことに気づく。
ベッドの傍らでシェルチェアに腰掛け、本を読んでいたらしいルカが顔をあげ「眠れたか」と声をかけると、ユーリは坐り直しながら頷いた。
「……少しは。テディはずっと眠ってるのか」
「ああ、眠ってる。でも、そろそろなにか飲み食いさせたほうがいいよな」
「昨夜、水は飲ませたが……そうだな」
キッチンでなにか軽いものでも作って、テディに食べさせたほうがいいだろうとユーリは思った。自分も、いいかげんなにか食べなくてはいけない。そういえばこいつもなにも食べていないのではと、ユーリはルカを見て云った。
「おまえも腹が減っただろ」
「いや。……おまえ、俺がどれだけ無神経だと思ってるんだよ」
「そりゃすまん」
むしろ無神経なのは俺のほうかもしれないな、とユーリは思った。
昨夜は結局一睡もできず、精神的にも肉体的にも結構限界に近いところまできていた。あんな目に遭ったテディを傷つけないように――文字どおりの意味で――慎重に、壊れ物を扱うように、それでいて他になにも考えさせないほど悦ばせてやらなければいけないという、無理難題を熟したのだ。テクニック云々の話ではない。ユーリ自身にとっても精神的にきつかった。
あんなに奔放に貪欲に求めてきたテディが、昨夜はただ背中に手をまわしてしがみついてくるだけで、洩れる声はまるで泣いているようだった。あちこちに残る痣も、二日続けて酷使されたところのダメージも気になったし、それに――HIV感染の危惧もあった。
ついつい普段は使っていなかったスキンを、昨夜に限って使うことの意味をテディに覚らせるのは避けたかった。それにボトム経験のあるゲイならわかるが、ゴムで擦られるのは痛いのだ。いつものジェルを使う前にワセリンを使い、解すというよりも治療しているような気分で愛撫し、もしものときは病院へでもあの世へでも一緒に行ってやると肚を括りスキンを使わず挿入したが、よく勃ったものだと自分で感心した。あんな綱渡りのようなセックスは二度とできないと思ったし、相手がテディじゃなければ誰がやるものかとも思う。
さすがにちょっと休みたくなり、しかしそろそろテディが目を覚ますのではないかと思ってしょうがなくルカを呼び、ソファでうたた寝をしたが、恋人が他の男のベッドで眠っている番をさせるのは、こんな場合とはいえやはり無神経だっただろうなと思う。
しかし、なぜこうなったかといえば――
「おまえ、なんで昨夜テディを放りだしたんだ」
「放りだしたって、人聞きが悪いな。……正直、怖かったからだよ」
ユーリはルカの顔を見た。
「俺だって拒むべきじゃないくらいわかってたさ。だけど、あんな痛々しいテディを見て……もしできなかったらって思っちまった。そしたらあいつは自分が拒絶されたように感じるだろうからな。俺は自信がなかったんだよ、笑いたきゃ笑え」
「いや……よくわかるさ。俺も同じだ」
「……結果的におまえに押しつけたみたいになって、悪かったよ」
ぼそりと呟くように云うと、ルカはぱたんと本を閉じ、サイドテーブルに置いた。
「ああもう、まったく肚が立つ! どこへ行くつもりかって心配で陰から見てて、おまえの部屋に入ってくんで安心するなんて、これ以上むかつくことがあるもんか」
その言い種は卑怯だ、とユーリは苦笑した。
「……なにか見繕ってくる。もう少しテディを見ててくれ……ひとりにするなよ」
「オッケー」
誰もいないだろうと思っていたキッチンにターニャがいて、なにやら作っている様子にユーリは少し途惑った。
いつもならこの時間はキッチンには誰もいず、いたとしてもリビングのソファにロニーがいるくらいなのに――なにか適当に簡単に食べられるものを作ろうと思っていたのに、キッチンが使用中とは。
さて、どうしようと思いながら、ユーリはターニャに声をかけた。
「めずらしいな今頃。なにを作ってるんだ」
ターニャは作業の手は止めずに、口許に笑みを浮かべて答えた。
「スヴィチュコヴァー とクネドリーキ ですよ」
ユーリは意外なそのメニューに軽く驚き、キッチンに身を乗りだして鍋を覗きこんだ。微かにスパイシーな、その慣れ親しんだ香りにほっと表情が緩む。
「……ほんの一週間かそこらなのに、なんかずいぶん食ってない気がするな」
「そうでしょう? 今朝は食欲がなさそうだったし、テディも起きてこないからひょっとして具合でも悪いのかと思って。お腹が空いて出てらしたら、いつでも食べられるようにしておこうと作ってたんです」
穏やかに微笑んでそういうターニャに、なんだか目の奥が熱くなるのを感じた。なにが琴線に触れたのかはわからないが、すごく懐かしい気分だった。
「そりゃあ……ありがとう。きっとテディも喜ぶ」
「お腹を空かせてちゃいけないんですよ。しんどいときや悩んでるときは、大抵美味しいものでも食べて好きなことをしてれば、気分から治ってくんです。あとでなにか甘いものも作るんで、云ってあげてくださいね」
「ああ、云っておこう……ターニャ」
「はい?」
ユーリは踵を返しながら、ターニャの顔は見ずに云った。
「あんたは……きっと、良い母親になるだろうな」
「なんです? そんなふうに云うなんてめずらしい」
もうこれ以上メニューは増えませんよ、と笑うターニャを残し、ユーリはキッチンを後にした。
部屋に戻るとベッドにもどこにもテディの姿が見当たらず、ユーリは血相を変えてまたルカに掴みかかった。慌てたように「待て待て!」と云いながら、ルカが襟首を掴みあげた腕を押し戻してくる。
「落ち着け! テディはバスルームだ、シャワーを浴びてるんだよ」
「……大丈夫なのか? 中に剃刀が――」
云いかけて、ユーリは口を噤んだ。なにを云おうとしたのかを察したのだろう、ルカが眉をひそめて自分を見る。
「おまえ、ひとりにするなするなって、テディが自殺するとでも思ってたのか?」
「……念の為だ。ありえないことじゃないからな」
「そうかもしれないけど、でも、大丈夫だ。おまえがそう云ったんだろうが。起きたとき、テディはふつうな感じだったぞ。シャワーを浴びるから着替えとバッグを取ってきてくれって云って、さっさと自分で動いたさ。ほっとしたよ」
「そう……なのか……」
バスルームのほうを見やり耳を澄ますが、確かに水音は平坦でなく、シャワーの下で動いているのがわかる。ちゃんと自分で髪や躰を洗っているようだ。
ユーリは張りつめていたなにかがすうっと抜けていくのを感じ、ベッドに坐りこんだ。
程無く、きゅっという音とともに水音が止んだ。耳に神経を集中させて気にかけつつ数分待つ。すると、上半身は裸のままジーンズだけ身につけたテディが頭にバスタオルをひっかけてバスルームからでてきた。目が合い、テディはタオルの上からがしがしと髪を拭いながら云った。
「おはよう、ユーリ」
「……ああ、おはよう……。その――」
本当にいつもと変わりない、普段どおりのその様子に、ユーリは今度こそ面食らってしまった。
あの悪夢のような出来事は本当にただの悪夢で、自分は今やっと目覚めたのではないかとさえ思った。あの綱渡りのようなセックスも、バスタブで独り言のように愛していると云ったのも、なにもかもなかったことではないのかと。
もしもそうならそれでいい。そのほうがいいに決まっているではないかと思ったが、ふと見えた手首にはやはりまだ痣が残っていて、夢でもなんでもなかったのだと知らされる。
「その、なんていうか……、調子はどうだ」
もう少しましな言い方はなかったのかと自分で自分に呆れつつ、ユーリは置いてあったサンペレグリノを飲むテディを、じっと見つめた。
「大丈夫だよ。それより腹減った。まだなにか残ってるかな」
どうやら食欲もあるらしい。本当に意外すぎるテディの様子に、ユーリはほっとするというよりも途惑いが先にくるのを感じつつ、答えた。
「ああ……クネドリーキとスヴィチュコヴァーがあるぞ。さっきターニャがおまえのために作ってた」
「俺の?」
「……そのメニューならテディのためじゃなくて、おまえのためじゃないのか」
ルカの言葉に、ユーリははっとした。
「テディのためなら甘いものか中華料理 だよな」
「うん、チェコ料理ならユーリのためだよきっと。顔色悪いから……」
なんてこった。ユーリは思った――一睡もできないほど心配していた奴に、逆に顔色が悪いなんて云われてしまうとは。
そう云ったテディの顔はぐっすりと眠った所為か顔色も悪くなく、表情にも翳りは見えない。確かに今は自分のほうが顔色が悪いかもしれないな、とユーリは苦笑した。
「……早く服を着ろ、食いに行くぞ」
いろいろな想いが込みあげてきてまた目の奥がじんとするのを感じ、ユーリはそれをごまかすように背を向けた。
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