20 / 44

DISC 02 / TR-19 - Desperado

 イビサへやってきてから約一ヶ月が経っていた。徐々に曲作りも軌道に乗ってきて、朝十時頃からはクラブで演奏、夕方ヴィラに戻ってからはリビングでアイデアを出しあうというペースがすっかり固まっていた。  早いときは一日から一日半で一曲、なかなかうまくまとまらないときはいったん棚に上げ、時間がかかった曲でもだいたい三、四日で仕上げていた。デモのストックはまだ五曲しかなかったが、断片的なアイデアを録りためたものはずいぶんと増えていた。それを即興演奏のなかに取り入れて膨らませ、あるときは別のアイデアを繋げて、ひとつの作品に昇華させていく。この調子なら、プラハに戻るまでにアルバム一枚分のデモはなんとかできるだろう、とロニーは安堵した。  気になったあの掲示板の一件も――テディの様子を見る限り、やはり(たち)の悪いでまかせだったとしか思えず、ロニーはほっと胸を撫でおろしていた。テディは半日ほど体調が悪くて(やす)んでいたと云ったが、そのあとは普段とまったく変わりなく過ごしていた。  エリーの云ったとおり、あの書きこみはほとんど誰からもまともに相手にされず、他に拡がるようなこともなかったし、ルカとユーリも別に険悪な様子だったりもしなかった。  夕食後に酒盛りになるのは、もうすっかりお決まりだった。  今夜はプリオラート産の赤ワインを、ラムチョップやタパスの盛りあわせと一緒に楽しんでいた。ジェシとテディはカリモーチョという赤ワインのコーラ割りを飲んでいて、プリオラートワインの飲み方じゃない、もったいないと、ロニーとユーリたち酒飲み組は嘆きの声をあげていた。 「ほんと、もう飲めない奴は飲むなって云いたいよな……。ターニャ、肉煮込む用の安いワインとかないのかよ」 「ええ、いくらなんでもそれだと味わかりますよ……いやほんとに! 弱いだけで味はわかりますってば」 「まあねえ、味もわからないでがぶ飲みされるよりはましかもしれないけど」 「そりゃ確かに。ロマネ・コンティやドン・ペリニヨンをそんなザルに飲まれたらたまらんだろうな」  いつものように和気藹々と駄弁りながらボトルを空けていく。そしてドリューとジェシが一足先に離脱するのも、テディが離脱しそこなって酔い潰れてしまうのもお決まりの展開だった。とはいえ最近はテーブルに顔を伏せて眠ってしまったあと、しばらくするとまた起きあがって水を飲んだりするようになっていた。ビールやシャンパンをそのまま飲んでいるときは多少コントロールできるようだった。  だが今日飲んでいたのは、赤ワインをコーラで割ってレモンを絞った口当たりの良いカクテルだ。飲みやすいとついハイペースになり、おまけに炭酸だと廻りも速く、悪酔いもしやすい。  ぐったりと臥せっているテディを見つめ、ロニーが大丈夫かしらと心配していると、隣に坐っているユーリが云った。 「今日はだめかもな。……ったく、なんで飲みやすいからって、弱い奴ほどこういう廻りやすいカクテルを好むかね」 「飲みたいけど飲めないから飲みやすいものを好むんじゃない?」 「あんたはなんでも飲みすぎ」  やれやれと呆れたように、ユーリはテディの肩に手を置き、揺り起こそうとした。 「おいテディ、寝るなら部屋行って寝ろ。おい……」  だが、まったく反応はない。ユーリは肩を竦めてやっぱりな、という顔をした。 「起きない? なら、横になれる場所に運んであげなきゃ」  ソファならこのまま寝かせておいてもいいが、ダイニングの椅子は肘掛けがなく、高さがある所為で横に倒れると危ない。ユーリはしょうがないなと席を立ち、テディの躰を引き起こそうとした。 「手伝います」  マレクも手を貸そうと動いた。ユーリが脚のほうを持とうとするのを見て、マレクはテディの後ろから手をまわして脇を抱え、椅子から持ちあげた。  そのときだった。ふと目を覚ましたテディが、はっと目を見開いて身を竦ませ、突然暴れだした。 「テディ?」 「おい――」  テディは動転したように、滅茶苦茶に腕を振りまわしていた。顔を恐怖と混乱に引き攣らせ、触れるものをでたらめに叩きまくり、脚で椅子を蹴り倒す。それに驚き、思わず手を離してマレクが一歩退くと、テディは向きを変えてさっとそこから飛び退いた。  ユーリも咄嗟にはなにもできないようで、愕然としたままテディをじっと見ている。テディは全身を震わせながらじりじりと後退し、壁に行き着きそのまま張りついたように立ち尽くすと――唖然として自分を見るいくつもの視線に、ようやく我に返った。 「あ……」  まだ震えは止まらない。呼吸も速く、手でシャツの(ボタン)を握りしめるようにして胸を押さえる。そのとき、やっと金縛りが解けたかのようにユーリが動いた。 「落ち着けテディ。……俺がわかるな? 大丈夫だ……落ち着いてゆっくり息を吐くんだ、ゆっくりだ」  テディが頷く。ユーリはほっとしたように、そっと傍に近づいた。 「大丈夫だ、誰もなにもしやしない。大丈夫だ……」  優しい口調でそう唱えながら、ユーリはそっとテディを抱きしめた。しがみつくように腰にまわされた腕の、ゆったりと羽織っていたシャツの袖から細い手首が覗く。  固唾を呑んでその様子を見ていたロニーは、テディの手首にちらりと見えるその色に気がついた。染みのように広がった黄色と、それに囲まれた赤紫――あれは内出血の痕だと思い、注視する。できてから数日経った、まるで誰かが力任せに握ったようなその痣。さっきマレクに抱えられて起こしたパニックと、テディに対するユーリの接し方。  ロニーの頭のなかで、あの掲示板に書かれていた文字がぐるぐると黒い渦を巻いていた。レイプ……四人掛りで……まさかそんな、本当にそんな目に――  顔から血の気が引くのを感じながら、振り返ってルカの顔を見る。ああやっぱり、本当にそうだったのだとロニーは確信した。ルカは見たことがないような悲痛な面持ちで、テディを見つめていた。ターニャは茶色い紙袋を手にしたまま強張った表情で成り行きを見守っていて、マレクは途惑ったままその場を動かずにいる。  やがてユーリがテディを連れてダイニングを出ていくと、薄氷の上に立っていたかのようなその場の緊張が解け――ルカが大きく息を吐いて、両手に顔を埋めた。 「……ルカ……、ちょっと話を……したほうがいいと思うの。いいかしら……」  言葉を選びながらロニーがそう声をかけると、ルカは少し顔をあげて、もう一度小さく溜息をついた。 「……しょうがないな。部屋へ行こう」  ルカは頷き、グラスに残っていたワインを呷ってから立ちあがった。  ルカがさっさと寝室のあるほうへ向かって歩くので、ロニーは少し途惑った。  テディが傍にいないところで話したほうがいいのではないのかと思ったからだ。しかしなにも云えずについていくうち、ルカはユーリの使っている部屋の前で立ち止まり、そのドアをノックした。  程無くかちゃりとドアが開き、ユーリが顔をだす。 「テディの様子は?」 「今はもう落ち着いてる。どっちかっていうとパニックを起こしたことのほうがショックみたいだ」  ふたりの会話を聞いて、ロニーは首を傾げた。 「え? テディ……こっちにいるの?」  ルカも使っている部屋だから勝手に入らなかったということなのだろうか。などと考えていたら、ルカが振り向いて云った。 「ああ……、そこも説明しといたほうがいいのか。どうする、俺の部屋で話すか」 「俺は平気だから、ここで話そう」  部屋のなかから声がして、ユーリがそっちを見た。 「大丈夫か」  返事は聞こえなかったが、たぶん頷いたのだろう。ユーリが部屋に戻り、ルカがドアを開けたままロニーを促すと、ベッドに腰掛けていたテディが困ったような笑みを浮かべているのが見えた。ベッドの脇にあったシェルチェアをルカが部屋の中程に引きだし、どうぞというように手で指し示される。ロニーは素直にそこに掛け、ふぅと一回深呼吸をした。ユーリは壁際に凭れて立ったままで、ルカは乱雑に服が掛けられたソファに坐った。 「まず……テディ、実を云うとあなたになにが起こったか、もうだいたいわかってる。でも……問題がデリケートすぎて、私はどうしたらいいのか、正直わからないの。なにから話したらいいのかしら……」 「だいたいわかってるって、なんでだ」  ユーリが眉をひそめてルカに云った。「おまえなにか云ったのか」 「俺はなにも云ってない」 「ええ、ルカはなにも云ってないわ。数日前……、五日ほど前かしら。ある掲示板に書きこみがあったの」 「掲示板? ネットのか」 「ええ。エリーがみつけたの……ゲイ向けのアダルトサイトの掲示板よ。……ひどい内容で……とても信じられなかったし、でまかせだとしか思わなかった。でも、あれは……」  ゲイサイトの掲示板と聞いてユーリが舌打ちをした。 「その書きこみのあと、そこはどうなってるか知ってるか」 「有名人に関するでまかせの書きこみだと思われて、それっきり騒ぎにもなんにもなってないらしいわ。それはエリーがちゃんとチェックしてる」 「なんて書いてあったんだ……」 「それは……私の口からは、とても……」  ルカの質問にロニーは俯いて首を振った。テディの前で云えるわけがない――否、そうでなくても云える言葉ではないが。 「どうせ輪姦(まわ)して散々啼かせてやったとか何回も達かせてやったとか、自慢話だろ。想像はつくよ」  テディがそう云うとロニーはぎょっと目を剥いた。 「あ、ごめん。女性に聞かせる言葉じゃなかったね……。さっきはちょっと、自分でもびっくりしたよ。驚かせてごめん、マレクにも謝らないとな」 「テディ、あなた……」 「うん……もうわかってるみたいだけど、ダルト・ヴィラに行った日、俺……ちょっとヘマやってさ。四人にやられたんだけど、そんなの別に、たいしたことないから。気にしないで」 「たいした……って、そんなわけないでしょ……」  ロニーは信じられないというふうに首を横に振った。が、テディは自嘲するような笑みを浮かべて、また話しだした。 「あのさロニー。俺がいったいいくつの頃から、何人の男と寝てきたと思う? いちいち数えてないんで自分でもわからないけど、まあ軽く七、八十人はいってるよ。たぶんもっとだろうな……クルージングスポットへ行くと一晩で四、五人とやるのなんてザラだったし、ポッパーズとかで飛んでて自分でも何人に突っこまれたのかわからないときもあったしね。だからこのあいだのも、ちょっと自分の思う相手じゃなかっただけだって思えば、そんなにたいしたことじゃないんだよ」  ロニーは頭が真っ白になったような気がした。  テディから目を逸らしてはいけないような気がしたが、それでも気になって堪らずルカを見る。ルカは陰鬱な表情でテディのいるほうとは逆を向いていて、ユーリは無表情にテディを見つめていた。  ――八十人。それよりもっと。かなり驚きはしたが、でも……と、ロニーは気を取り直し、真っ直ぐにテディの顔を見た。 「そんな……過去に百人と寝ようが千人と寝ようがそんなの、関係ないじゃない! その理屈だと娼婦は強姦されても平気ってことになるけど、きっとそんなことないし! っていうか被害を受けた人の仕事とか普段の生活によって加害者の罪が軽減されるとか、あっちゃいけないし! だいたい本当にたいしたことじゃないなら、さっきどうしてあんなふうになったのよ……怖かったんでしょ? すごく厭な思いしたんでしょ。ちゃんとごまかさないで自分の気持ちに正直に泣いたり怒ったりしないとだめよ……! そうしないと、たぶん、きっと……」  ぽかんと目を丸くしているテディに、ロニーはなんだか泣きそうな気分になった。「きっと……そういうのって時間が経ってから、なにかよくない影響があると思う。あなたの子供の頃の体験だってそうよ。そもそもその……性的虐待があったから、そういう場所で無茶なセックスをするようになったんじゃないの……?」  ――テディは愕然とし、ルカはロニーを見た。ユーリは腕組みをしたまま目を閉じて天井を仰ぎ、視線をロニーに戻すと「……失敗した。あんたと話なんかさせるんじゃなかった」と云った。 「どうして? たぶん私は間違ったことは云ってないわ。テディにはカウンセリングが必要よ、さっきのだってPTSD――」 「ああ、たぶんあんたは正しい。正しいが……なんでそれをテディに云っちまうんだ」 「え――」  はっとして、思わずテディを見る。テディは、どこか遠くを見ているような目をして、黙りこくっていた。 「おまえらぜんぜんわかってねえ……、もう出ていってくれ。テディのことは俺がなにもかも引き受ける。出ていけ」  ユーリは絞りだすようにそう云って、テディの前に立った。 「出ていけって……待ってよ、そういえばテディはどうしてこっちの部屋にいるの……、あんたたち、いったいどうなってるのよ」 「テディはもう俺とは一緒にいたくないんだってさ。行こうロニー」 「え? え!?」  ルカに袖を引かれて部屋をでると、ロニーは混乱した顔でもう一度、ルカに訊いた。 「どういうことなの、テディと別れたの?」 「さあな、俺にもよくわからない。あいつはただ、しばらくユーリの部屋で寝るからって、そう云っただけなんだ……もちろんやるこたぁとっくにやってるけどな。たぶん俺よりユーリのほうが頼りになるからだろ」 「……って、そんな……」  ロニーはわけがわからなかった。「ルカ、あなたはそれでいいの?」 「いいも悪いも……どうしようもない。あいつは俺の云うことなんか聞きやしないよ。昔からそうだ」 「そんな」  ルカは自室に戻り、ロニーはなんとなく収まりがつかないのを感じて、ルカについて部屋に入った。ルカも、それを拒みはしなかった。  部屋の掃出し窓を開け、ルカはテラスからライトアップされているプールサイドへ出ていった。プールの周りをぐるりと歩き、反対側のビーチベッドが並んでいるところまで来ると、そのうちのひとつに腰掛ける。  黙ってあとをついていき、ロニーがそれに倣うとルカはしばらくはなにも云わず、ライトの光を受けて静かに波立ち、きらきらと光る水面を見ていた。 「昔から……初めて会った十四の頃から、あいつが俺の云うことを聞いた試しなんてないんだ」  ルカは詞を読みあげるかのように、ぽつりぽつりと話し始めた。

ともだちにシェアしよう!