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第1話

春を過ごして少し後の空はここ何日も雨を降らせ、憂鬱にもなるほど降り続ける雨粒が静かな音楽室の窓を幾つも滑り落ちていく。 あまりに田舎なもので、学生の夢見る吹奏楽部なんて大きな部活もなければ軽音部なんて洒落た集まりもない。 だからクラスに馴染めない、馴染む気もない一人の小柄な少年「佐々木 翠(ささき すい)」はそれを良いことに普段鍵なんて開けっぱなしにされている音楽室を昼食の弁当を食べ昼寝をする場所にしているのだ。 友達はいない。 中学卒業と同時にこの田舎に引っ越してきて知り合いは一人も居らず、挙げ句の果てに性格上思ったことを思ったままズバズバと言ってしまう癖がありものの見事に一年生の前半、翠の周りには誰もいなくなり腫れ物のように扱われるようになってしまった。 それからは誰も居ない音楽室を見つけて入り浸るようになった。 そもそも彼の性格は大きな自信とプライドから作り上げてきたものだった。 幼い頃から声楽団に所属し、美しく天才的な歌声を持ち合わせていた翠は努力も怠らない完璧主義で、自分自身を厳しくするが余り周りにも辛辣な言葉を発してしまうのだ。 そのせいで彼を素直に好きだと言う者はいなかったが、翠自身は声楽団の皆と共に歌うことが好きで好きで仕方がなかった。 特に翠は自身の祖母に歌を聴かせるのが好きで毎日歌い続けていた。 しかし、そんな愛しの祖母は翠が小学六年生の頃に亡くなってしまった。 それでも翠は歌い続けた。 祖母の言った 「貴方の歌声はとっても好きよ。貴方の歌声は私を幸せにしてくれるもの。」 その言葉を胸に歌い続けていたが、声変わりによって歌えなくなってくる。 成長による声変わりは自慢の美しいソプラノの歌声を出す喉を奪っていき、誰よりも翠の歌声を愛していた祖母も亡くなってしまった。 それは翠にとって生きる希望を見失うも同然だった。 幸いなことに声変わりが終わってもそう大差無く歌うことはできたが、翠にとって祖母の死は余りにも大きいショックだった。 自慢の歌声を出すことが出来ても、誰よりも自分の歌を聴いて欲しい人が居なくなった翠にはもう一度歌うことは出来なかった。 毎日が退屈で、色味の無い日々を過ごす。 今日も誰にも邪魔されぬまま机に頬杖をついてだんだんと迫り来る眠気にうつらうつらしてくる。 サラリと垂れた黒い前髪の隙間からぼうっと窓を覗いていると、ガチャリと扉が開く。 暫くすると、ピアノの音が聞こえてきた。 話し声は聞こえないからきっと一人だろう。 翠は気にせず目を瞑っていると、ゆったりとした曲が流れてくる。 それは翠の知っている曲、声楽の中でも有名な曲「Caro mio ben(カロ・ミオ・ベン)」だ。 (少しテンポが速いな。でも、綺麗な伴奏だ。…懐かしいな。) 誰が弾いているのか知りたくなった翠は目を開けてピアノの方へ視線を向けると、背丈も高くガタイの良い男子学生がいた。 いかにも野球男児な彼は、ゴツゴツとした指を器用に動かしている。 坊主とまではいかない短髪の彼の横顔からは心からピアノを楽しんでいるのが分かる。 翠はまた静かに目を閉じ、静かに鼻唄を歌う。 「きっと聞こえてないだろう。」そう思いながら歌う。 しかし、奏者はその微かな歌声に気付いた。 間近で聞こえるピアノに混ざり今にも消えそうで可憐なソプラノ、伴奏を止めるにはあまりにも惜しい。 その歌声を聴いていたいと指を運ぶ。 曲を弾き終わると、翠に向き直り急にオドオドし始めて目も泳いでいる。 「す、すみません…!う、うるさかった、ですよね…。」 「いや、別に。テンポが多少速いくらいじゃない?ま、いい演奏だったけど。じゃ、僕はこれで。」 「あ…。」 ストレートのショートボブの黒髪がサラリと揺れ、猫目な右目の下の泣き黒子が学生の目に映る。 学生はただ、空の弁当箱を持った翠をじっと見つめているだけだった。 「弁当箱、だよな…。明日も来たらいるのかな…。」 そんなことを呟いていると、予鈴が鳴り学生は慌てて教室に戻った。

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