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第1話

幸せな家族を欲するのはもう辞めた。そんなものは一生をかけても手に入らない。 たった18年しか生きてないけど、少なくとも俺の人生は、そんなもんだと思う。 9月下旬、8月の茹だるような暑さが無くなって半袖ではもの足りなってくる頃、俺は夕方4時半に目が覚めた。スマホの画面を開くと着信履歴が3件、おそらく役所からだろうが、出る気になれないし出れるときに起きてない。 鉛のように重い身体をなんとか起こしてトイレへ向かう。 「ゲッ、ゲボッ…ゲッ、おぇっ…きっつ。」 便器に向かってひたすら胃液を吐き出したあと、苦酸っぱく気持ちの悪い口内を軽く水で洗い流して、また布団に潜り天井を見上げた。 こんなことを繰り返す日々をどれくらい続けていただろうか。ゴミで殆ど床が見えない部屋には俺以外誰も住んでいない。父親のひどい酒癖とDVのせいで、母親は自らこの世を去ってしまった。父親は俺を捨て、それから俺は生活保護に入って今の人生を送ってる。 「あー…腹減った、かも…。コンビニ……。」 財布をズボンのポケットに突っ込んでゴミだらけの部屋を縫うように歩いて玄関に向かい、土ぼこりにまみれたサンダルを履いて外に出る。 季節の変わり目だからか風が少し強い。 最寄りのコンビニまで歩き始めると、近所に住んでいる奴らが俺とすれ違うとヒソヒソと話し声が聞こえてくる。 「ほらあの子よ、父親のDVで家庭崩壊した子…。奥さんなんて精神病んじゃって自殺ですって…。」 「やだぁ、きっと父親の血を引いてるから性格も…。うちの子が襲われなきゃいいけど…。」 「うちの子にしっかり言っておかなきゃ…。」 「鈴木さんの息子さん良い子よねぇ。お勉強も出来て塾にも文句言わずに行くなんて。」 (チッ、勝手に言ってろ。何も知らないくせに、好き勝手言いやがって。…はぁ、やっぱり出掛けなきゃよかった。) 心のなかで愚痴を吐露しながらコンビニへ入った。 カゴを手にしてカップラーメンを数個と適当にスポーツドリンクとバニラアイスを投げ入れる。 味なんてどれも一緒のように感じるし、とりあえず空腹が満たされればそれで良かった。 レジ袋を片手に引っ提げてコンビニから出ると、もうあのオバサン三人組は居なかったが代わりに少年が俺を見つめて立っていた。 (何だこいつ?小学生か…?変なやつだな。) 小学生の隣を通りすぎるとついてきた。 「こんばんは、おにいさんっ!」 「ぇ…俺?」 「そうだよ、おにいさん。こんばんはっ。」 「あ~、こんばんは…?」 急に話しかけられたもんだから訳も分からず挨拶を返す。 その小学生には見覚えもない、挨拶は大事と言うがそこら辺の住民にまで挨拶をするのはどうなのだろうか? そのまま立ち去ろうとすると、また話しかけられる。 「おにいさん、いつもこのコンビニに来るよね。好きなの?」 「いや、別に…。」 「へぇ~、おにいさんってそこのマンションに住んでるよね?僕も同じマンションなんだ~。」 「君、急に何?俺君みたいな子供知り合いで居ないんだけど…。後、そういう個人情報はベラベラ話すもんじゃない…。」 このご時世、個人情報の取り扱いは本当に注意した方がいい、俺は思わずそうその小学生に口を出してしまった。 小学生はキョトンとした顔で俺を見上げていたが、すぐに笑顔に戻った。 「僕はお兄さんの事を知ってる。父親のDVで家庭が崩壊したんでしょ?」 「…だからなんだよ、お前も周りの意地汚ねぇ大人達みたいに俺を笑うんだな…。」 「僕はそんなこと一言も言ってない。」 「言ってるようなもんじゃねぇか。噂を聞いて面白おかしく笑ってるんだろ?てか付いてくんなよ。」 「さっき言ったでしょ、お兄さんと一緒のマンションだって。帰る方向が同じなだけだよ、一緒に帰ったっていいじゃん。」 そう言いながら不貞腐れるその小学生は俺の隣から一向に離れようとしない。 いい加減ウザったくなった俺はそいつに話しかける。 「あのなぁ、お前は一緒に帰りたいかもしれないけど俺は一緒に帰りたくねぇの。…お前先に帰れ、俺ここの公園で時間潰すから。」 「じゃあ僕も公園行く~。」 「はぁ?まじでやめて欲しいんだけど。通報されて警察のお世話になるの俺なんだけど…。」 「じゃあさっさと一緒に帰ろ?」 俺が頭を抱えて言うとその少年はいたずらっ子のように笑って俺の手を引っ張る。 このままでは埒が明かないと思った俺は諦めて一緒に帰ることにした。 二人で歩き始めると、小学生が話しかける。 「ねぇ、お兄さん名前なんて言うの?」 「個人情報なんで教えられませーん。」 「僕は秀人。優秀な人で秀人だよ。」 「お前、そう簡単に名前教えんなって言ったばっか…。」 「で、お兄さんは?」 俺のあきれた言葉をまるで聞かなかったかのように接する秀人。 一方的に聞いてしまったので仕方なく教えることにした。 「さ、幸…。」 「幸かぁ…言い名前だね、幸!」 「どこがだよ。名前負けしてんじゃん。家庭崩壊してんだぞ、どこが幸せなんだよ。」 「でも、僕はいま幸と一緒にいて幸せだよ?」 「はぁ?…っと、あぶねぇ。」 予想外の答えに思わず転けそうになる。 よろけた俺に秀人は笑いながら続けた。 「ねぇ、しっかりしてよぉ。」 「お、お前が変なこと言うから…。」 「だって本当だもん。幸のことは3ヶ月前から見かけててさ、顔が僕のタイプだったからずっと話しかけるタイミング伺ってたんだぁ。あ、幸のことは半年前くらいから噂で聞いたことはあったけどね。」 衝撃だった。 こいつが男が好きで、ましてや俺の事をタイプだということも、俺を3ヶ月も前から見続けていたことも。 言葉に出来ない恐怖のような何かが俺の背筋を伝った。 いや、しかし相手は小学生だ。きっと好奇心というものだろうと頭を振って考えを捨てた。 俺は平然を装って会話を続けた。 「そ、そんな前から知ってたんだな…。気付かなかったわ。」 「そうだろうねぇ。すれ違いもしなかったし、ただ僕が一方的に見かけてただけだったし。母さん過保護だから話しかけることも出来なかったし、塾もあったしさぁ。」 塾という単語で俺は思い出したことがあった。 何となくそうではないかと思い、秀人に聞いてみる。 「なぁ、お前って名字鈴木?」 「何で知ってんの?!すげぇ!」 「お前の母親、コンビニ行く途中で見たわ。今日俺の事言われると思うから、適当にはぐらかしておいてくれよ。」 「そりゃ勿論!」 自信満々に胸を張って答える秀人に、俺は思わず笑いを溢した。 「ふははっ、何その自信。」 「幸やっと笑ってくれた。やっぱ笑うともっと可愛いね、想像した通り。」 ニンマリ笑顔で秀人が言った言葉に、思わず顔が熱くなる。 そんな俺の顔をみて更にニヤニヤして俺の顔を覗き込む。 「おい見んなって。」 「え~?可愛いんだもん。」 「それ小学生が18歳に言うことじゃねぇんだけど、しかも男に…。」 「良いじゃん、可愛いのがいけないんだし。あ、ほらエレベーター来たよ!」 秀人が俺をエレベーターに押し込む。 俺が階層を押そうとしたときにはもう押されていた。同じ階らしい。 妙に俺に引っ付く秀人から離れると更に俺を壁に追い込んで来る。 さすがに耐えきれずに秀人に話しかける。 「なぁ、なんでこんなに追い込まれてるの?俺を壁ドンして何が楽しい?てか身長差で出来てないけど…。離れてくんね?」 「んふふ、幸が可愛くてつい。」 「つい、じゃねぇよ離れろよ。おれは嫌なの。」 「嫌そうな顔してないけどね。」 「は?ちょ…なにすんっ…!?」 何を言われているのか理解できずにいると、急に胸ぐらを捕まれて引き寄せられる。 その勢いで口の端に一瞬、柔らかいものを当てられた。 顔が離れると、秀人はまたいたずらに笑って見せた。 「ちょっとズレちゃったか…、まぁ初めてだし仕方ないか。幸の驚いた顔、可愛いね。」 「おま、なにして…。」 ポーン、と音が鳴って扉が開く。 俺が急いでエレベーターから出ると、秀人はさっきの小学生とは思えない雰囲気とは裏腹に子供らしく笑っていた。 「あははっ!そんな驚かなくてもいいのに、本当面白い!」 「お前、あんまこういうことして他人をからかうなよ…。」 家の鍵を開けると、秀人は俺の隣の部屋を開けた。 俺は驚愕して声も出なかった。 「お隣さんだったんだ、ラッキー。今度お母さんが居ない時に遊びに行くね、幸。」 「はぁ?ぜってぇ入れねぇかんな。」 扉を閉めて鍵を掛けると一気に腰が抜けてしまった。 顔は熱いままでむしろ身体全体が熱くなっているのを感じる。 胸に手を当てずとも、まるで耳元で鳴っているかのように心臓の音がドクドクと激しく主張している。 (最近の小学生、皆あんな感じなのか…?) 俺はそこから数時間、エレベーターでの出来事が頭から離れられないでいた。

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