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第1話

 そろそろ来る頃合いか、と錦公太郎は自宅で持ち帰りの仕事に精を出しながら、ちらちらと時計を気にしていた。  時刻はそろそろ夜の九時を指そうとしている。  集中してキーボードを打っていたはずが、今では心ここにあらずと言った様子で、思うように仕事が進まない。  こうなれば一旦休憩を入れた方が良いと、錦は固まった身体をほぐすように大きく腕を前に伸ばした。  錦公太郎は今年で三十二歳になる現役の高校教師だ。人好きのする恵まれた容姿と、日本人離れした彫刻のような肢体を持つ錦は、極めて異性からの評判が良い。また本来なら同性からの妬まれてもおかしくなかったが、嫌味のない性格と、誰にでも分け隔てなく接する愛想の良さが功を奏し、なんだかんだと同性をも懐柔していた。  とはいっても、そんな錦はあくまで表向きの、人気教師としての仮面を着けた偽りの錦公太郎だ。本来の錦という男は、わがままで気分屋、少々だらしなく、狡賢い一面もある少しばかり擦れた性格の男だった。  自分の見てくれの良さを理解している錦は社会生活をスムーズに送るため己の本性を隠し、人々が理想とするであろう錦公太郎という男を演じながら生きている。  常に本来の自分を隠すというのは骨の折れる行為だった。だがそこに大きなメリットを得られるのであれば、多少の骨折りなど苦ではない。  実際、錦の社会的地位は確立されている。生徒や保護者はもちろん、進んで雑用を引き受ける錦は教師陣からも頼りにされ、好かれていた。錦が少し困った顔をして見せれば、多少の苦労などもろともせず手を貸してくれる者も多い。万が一錦が何か問題を起こしたとしても、誰もが庇ってくれるだろう。もしくはたとえそれが真実であったとしても、錦がそれを嘘だと言い張れば、誰もがそれを信じるに違いない。それを理解しているからこそ、錦は己のためにも仮面を着けることを止められなかった。  もちろん、メリットがあればそこにはリスクもある。本来の自分を偽ることで、錦は大きなものを失っていた。それが恋愛だった。  錦は物心のついた頃からの生粋の同性愛者だ。女性に嫌悪感はないものの、恋愛対象として見ることは出来ない。それでも十代の頃は異性と付き合ってみたりもしたが、ベッドにもつれ込む前に破局していた。今になって思えば、不幸中の幸いだ。異性の裸を見たところで、錦のそれはピクリとも反応しなかったに違いない。  本格的に女性と恋愛関係になれないと悟った錦はゲイの世界に飛び込み、誘われるまま何人かの男と関係を持った。その誰もが錦に抱かれたいと声を掛けてきた者ばかりだった。  請われるまま男を抱いた。だがどうにもしっくりこない。満足感がなく、いつまでも満たされなかった。焦燥感すらある。そこでようやく気が付いた。自分は抱くのではなく、抱かれる方を望んでいるのだと。  仮面のリスクを知ったのはこの時だった。  体格の良い錦はそれだけで抱くことを求められやすい。それに加え、周囲が望む錦を演じるということは、紳士で頼りがいのある、男としての魅力に溢れた人物になるということだった。そこに男に抱かれたいなどという態度を表すことは一片たりともあってはいけない。ほんの少しの綻びが違和感となり、評価を下げてしまうことを錦は知っていた。  好意を抱いた男にたいして、抱いて欲しいと言えないことが辛かった。抱くことを求められるのも苦しくて仕方がない。錦は次第に恋をすることを諦めていった。  そんな時に出会ったのが、通っていた大学で教授を務めていた谷崎だった。  紳士然とした谷崎に錦は惹かれた。言葉で愛を伝えなくても、錦の視線が、行動が雄弁にそれを語った。  紳士である谷崎になら抱いて欲しいと伝えても、受け入れてもらえるのではないだろうか。浅はかにそう考えた青かった錦は、縋りつくように谷崎を求めた。そして初めて男に抱かれた。  その時のことは今でも鮮明に覚えている。身体はきつかったが、それ以上に嬉しかった。たとえそれが妻子のある男との不貞行為だったとしても、幸せだと感じた。だからこそ不倫関係を提案されてもすんなりと受け入れることが出来たのだ。  今考えれば、馬鹿なことをしたと思っている。若かったといえばその通りだが、あまりにも思慮が浅かった。その先にあるのは幸せではなく破滅でしかないのに、己の一時の悦しか考えていなかった。  そのことに気付いたのは大学を卒業し、教職に就いてしばらくたってからだった。逃げるように谷崎の元から離れ、だがこれで二度と自分は恋が出来ないだろうと悲嘆した。歳を重ねるたびに仮面を外すことが難しくなり、抱いて欲しいと本音を出すことはますます出来なくなった。  だからこそ思う。今のこの状況は奇跡に近いのだと。

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