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第2話

「あいつ、遅いな……」  時計の針は九時半に差し掛かろうとしている。  いつもならとっくに着いているはずなのに。まさか何かあったのだろうが。途端に胸がざわつき、座っているだけで落ち着かない。  冷静になれと自分に言い聞かせる。 すでに成人している男が時刻通りに来ないからといって、何を心配する必要がある。事情だってあるだろう。だがそれなら連絡の一つくらいあってもいいのではないか。錦の中に焦りに似た感情が募っていく。 とにかくまずは連絡を取ろうとスマホを手に取る。少し緊張しながら見慣れた名前を呼び出した。玄関先で物音が聞こえたのは、今まさに通話ボタンを押さんとしたその時だった。 「悪い、遅くなった」  錦の渡した合鍵で当然のように家へ入ってきたのは、若い男だった。錦より十一年下のこの男こそ、錦が愛してやまない恋人だ。 「電車の中で寝過ごしちまって」 「遅くなるなら連絡入れろっていつも言ってんだろ」 「だから悪かったって。連絡入れるよりも早くあんたのとこに行こうと思ったんだよ」 「連絡の一つくらいで時間は変わらないだろ」 「まあ、そうかもだけどさ。なに、心配でもしてくれた?」 「バカ言うな。誰がお前の心配なんか……」  素直になれない錦は不機嫌を隠そうともしない顔でそう言った。だが言葉とは裏腹に、耳の先が赤く染まっていく。図星なのは見て明らかだった。  若い男――速水省吾はそんな錦を見てクスッと笑う。錦が素直でないのはいつものことだと、一年以上交際を続けている省吾には分かり切っているようだった。 「今度はちゃんと連絡入れるから」 「……ああ、そうしろ」  まだむくれた顔をしている錦の眼前に省吾がせまると、軽くキスをして数日ぶりの再会を喜び合う。ほんの一年前までおっかなびっくりだった省吾からのキスも、今ではとてもスマートだった。  速水省吾は錦の元教え子だ。一年から三年まで、錦が省吾の担任をしていた。  今でこそ大人の男としてそれなりに落ち着いている省吾だが、思春期は荒れに荒れた生活をしていたらしい。らしいというのも、錦と出会った時には若干落ち着きを取り戻していたので、他の生徒と大きく違ったかといえば、たいして違いはなかったように感じる。だが傷害事件を起こし、少年院にいた過去があったことから、なにをせずとも省吾は問題児として扱われていた。  いざという時のために体格の良い錦を側に置いた方が良い。そんな風に学校から押し付けられた形で省吾の担任になった錦だが、やはり最初は省吾を快く思ってはいなかった。  体格は良くても暴力沙汰とは無縁の生活を送っていた錦は、いつか来るかもしれない、いざという時に怯えながら、教師生活を送るしかなかった。不登校にでもなるか、いっそのこと自主退学してくれないかと、教師として最低な気持ちを抱いていたこともある。  省吾に仮面を外した顔を見せたのは、偶然だった。こいつなら周囲に自分のことを漏らしたとしても、誰も信じやしないと思ったのもある。  教師として、大人として最悪な行為を省吾にした。ろくでもない姿を見せ、誰にも知られたくなかった谷崎との関係まで省吾には知られてしまった。とことん自分が情けなく嫌になったが、まさか省吾がそんな自分を好きになり、抱きたいとまで言うとは晴天の霹靂だった。 「公太郎さんも晩飯まだだよな。腹減ってるだろ。すぐに作るから」  省吾は勝手知ったるといった様子で、単身者用の小さな冷蔵庫を開ける。 「あれ、あんた豚の生姜焼きが喰いたいって言ってなかったっけ?」  冷蔵庫を覗き込みながら省吾が言った。料理を作るのは省吾が担当しているが、買い出しの担当は錦だ。省吾は魚の切り身の入ったパックを手に、不思議そうな顔をしている。 「なんか急に煮魚が食べたくなった。甘辛いやつ」 「煮魚なぁ……。あんま作ったことないんだけど。まあなんとかなるか? 他のリクエストは?」 「味噌汁。でも煮魚が甘辛いやつがいいから、味噌汁の具はさっぱり目がいい。玉ねぎは口の中が甘っぽくなるから嫌だ。あとジャガイモも」 「はいはい。口の中がザラザラするのが嫌なんだろ。野菜は何買った?」 「なんか緑色の葉っぱが沢山のやつ」 「葉野菜は全部緑色だっての。……あー、みず菜か。どうやって食おう」 「チョイスまずったか?」 「なんにでも使いやすい野菜ではないけど、食べ方は色々あるから大丈夫。……じゃあ副菜は適当にやるか」  頭の中である程度の段取りが出来たのか、省吾は迷うことなく調理に取り掛かる。錦は省吾の後ろに立つと、背後からそっと抱き着いた。 「公太郎さん、仕事残ってるんじゃないの」 「さっき終わった」  それは嘘だ。だが期限はまだある。今の錦にとって仕事よりも省吾との時間の方が遥かに大切だ。

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