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第3話
「手空いてるならテーブルを片付けておいてよ」
錦の家には小さなローテーブルが一つしかない。その上には先ほどまで使用されていたノートパソコンが鎮座しており、このままでは省吾と食卓を囲めなかった。
だが錦は片付けることを拒否する。
「手、空いてない。お前で塞がってるから」
それを証明するように錦は省吾を抱きしめる腕にそっと力を込めた。
省吾はフッとどこか大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべる。
「それならしょうがねぇなぁ」
錦の胸がきゅんと音を立てた。省吾は笑うと目を眇める癖があるが、それを見るのが錦は好きだった。
甘やかされている、と感じる。ずっと好きな人に甘えたいと思っていた。甘えられるのではなく、甘えて、可愛がられたかった。省吾に出会うまでそれは夢のまた夢だと思っていたが、本当の錦を知っている省吾はとことん自分を甘やかしてくれる。
錦の多少のわがままなど、わがままのうちに入らないと省吾は笑って聞いてくれた。挙句の果てに、そんなわがままも可愛いとまで言う。嫉妬深く、束縛してしまうこともあるが、それすらも簡単に受け入れた。束縛も不器用な愛情表現なのだと、喜んですらくれた。
身も心も、ぐずぐずになるまで甘やかされていると感じる。
省吾に気持ちを打ち明けられたとき、互いの関係は教師と生徒だった。だから卒業までは付き合わないと告げ、卒業後にようやく恋人になったが、心の底から英断だったと思う。依存心が強く、好きになれば相手に溺れやすい自覚はあったが、ここまで省吾にどっぷりつかるとは思ってもいなかった。
「包丁と火使う時は少し離れてろよ」
錦は省吾の首筋に顔をうずめたまま返事をしない。離れてろと言っても離れようとしないのはいつものことで、省吾もすっかりそれに慣れた様子だ。錦を背負ったまま調理することもすでにお手の物だった。
錦の視界に、省吾の左手が入る。薬指にはシンプルなシルバーリングが輝きを放っていた。同じものが錦の左手薬指にもある。付き合って一周年の記念日に、省吾から贈られたペアリングだった。
贈られて少し経つが、未だに目にするとにやけそうになる。安物だけど、と珍しく少し緊張した面持ちで指輪のケースを開けた省吾を、錦は一生忘れることはないだろう。
愛おしい。十一も歳の離れた男に心からそう思う。好きで好きでたまらない。ほんの数日顔を見ないだけで、焦がれて頭がおかしくなりそうなほどだ。これほどまでに自分が誰かを好きになるなんて、過去の自分には考えられないことだった。
省吾を抱きしめる腕に、力がこもる。
「公太郎さん? どうした?」
錦は返事をしない。ただ省吾を放したくないという耐えがたい欲求に襲われていた。
最近、自分自身おかしいと思うことがある。
省吾が心の底から、誰よりも好きだった。甘やかされて、愛されて、これ以上ないほど幸せな日々を過ごしているはずだ。だがそれでも何か足りないと感じてしまう。腹が完全に満たされず、常に飢えているような焦燥感だ。甘やかされ、愛されるたびにそれは募っていく。
自分が感じているのと同じくらい、いやそれ以上に省吾を甘やかし、徹底的に愛してやりたい。誰も触れたことのない奥の奥まで省吾に触れてみたいと思う。自分に縋りつき、誰にも見せたことのない姿を自分だけにさらけ出して欲しかった。
あれほど誰かに抱かれることを望んでいたはずが、いつの頃からか、省吾を抱いてみたいと思うようになっていた。
自分の中にまだこんな雄の本能があったことに錦は戸惑う。誰かを抱きたいなど生まれて初めての衝動だ。
省吾にはこの気持ちはまだ打ち明けていない。男同士の恋愛において、セックスでのポジションというのは意外に繊細な問題だ。ずっと抱かれることを望んでいた自分がいきなり抱きたいなどと言うのは、とても今更だと思った。
だがこの衝動もどこまで耐えられるのか、錦には見当がつかない。ここ数か月、なんとか抑えてはいるが、甘やかされ省吾の体温を感じるたびに、本能のまま押し倒してしまいたくなる。いつまで黙っていられるか、それも時間の問題だ。
だが伝えて、拒否されたらどうなる。万が一それで省吾が自分から離れてしまったら。これほど焦がれて、省吾がいない生活が考えられなというのに、今更何を言うかと愛想をつかされてしまったら。
そんなことを考え始めると怖くて仕方がなかった。ただ声を殺し、衝動に耐えることしか出来ない。
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