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第4話

「公太郎さん、なんか悩みでもあんの? 最近そうやって黙っちまうこと多いけど」  調理の手を止めることなく、省吾はそう言った。  ばれているのか、と錦は観念したように省吾の首筋にうずめた顔を上げる。 「らしくないぜ。何か言いたいことがあるなら言えばいいのに。わがままはあんたの専売特許だろ」 「らしくない、ね」  今内に抱える悩みは、更にらしくない悩みだ。 「何に悩んでるのか知らないけど、俺と公太郎さんの仲じゃ今更だろ。なに、俺には言えないこと?」 「……逆。お前にしか言えないこと」  省吾以外の相手に、抱きたいなんて感情を抱くことは決してない。抱きたいという言葉は省吾のためだけにあった。 「なお更さっさと言えよ。どんな話でもあんたのこと嫌いになったりしないし、俺に叶えられる範囲のわがままなら聞いてやるから。まあ別れたいとか言い出したら修羅場になるけどな」 「俺から別れたいとか言うわけないだろ」 「そりゃ良かった。それならさっさと吐いちまえ。二人の問題は二人で乗り越えるしかないだろ」  錦は省吾を抱きしめる腕にじっとりと汗をかく。  本当に伝えてもいいのだろうか。省吾の言葉を疑うわけではない。疑うわけではないが、葛藤がある。この悩みは省吾の叶えられる範囲のわがままなのか分からない。  これが本当に二人の問題なのかも分からなかった。セックスは二人でないと出来ないが、衝動は錦が我慢すればいいだけのことだ。錦が耐えさえすれば、少なくとも今の関係を壊すことはない。  なら耐えればいい。それが最善だと頭では分かっている。分かっているのに、感情はそれを拒否しようとしていた。 「……甘えてもいいか?」  省吾は何も言わない。それが無言の肯定であることを錦はすでに知っていた。  三十を超えた大人の男が、十一も年下の男の顔色を窺いながら、ようやく声を発する。 「お前のこと、その……抱いてみたい」  錦の腕の中で省吾が動揺したように小さく揺れる。それまで手際よく動いていた省吾の手が少しずつ遅くなり、やがて完全に止まった。  やはり言うべきではなかったかと錦は後悔する。省吾の沈黙が怖かった。ほんの数秒がまるで何時間にも感じる。  省吾は少し戸惑った様子ではあったが、その口から出た声音は先ほどまでと変わらず、穏やかなものだった。 「一つ聞いておきたいんだけど、春日部さんに何か言われて……とかじゃないよな?」  春日部は錦の旧友であり悪友だ。本当の錦をする数少ない人間でもある。省吾との仲も春日部は知っており、省吾の成人祝いに三人で酒を酌み交わしたこともあった。 「あんたって周りの意見とか結構気にするタイプだろ。春日部さんに年上なら抱いてやれとか言われてその気になったなら、無理する必要ないと思う。それとも本心? あんたが心からそう思って言ったのか、どっち?」  穏やかだが問い詰めるような省吾の口調に、錦はしばらく返事が出来なかった。 「……今まで抱かれたいとしか思っていなかった男が、他人の意見で違う方向にシフトするわけないだろ」 「ってことは公太郎さんが本心で俺のこと抱きたくなったってわけか」  省吾の手が、再び軽快に動き出す。リズミカルに食材を刻む音が狭いキッチンに響いた。 「いいよ、別に」  あっけらかんと省吾が言う。あまりに普段通りに、他愛もない会話でもしているような返事に、錦は思わず聞き流してしまいそうになる。 「……いいのか? 本当に?」  あっさり承諾されてしまったことが信じられず、錦は念を押すように言葉を続ける。 「抱くってこういう……抱きしめるって意味じゃないぞ。ベッドの上で、その……そういう行為って意味で」 「俺は生娘か。それくらい分かってるよ。分かっていて、別にいいって言ってんの。公太郎さんもそんなことで思い詰めなくていいのに」 「そんなことって。ゲイの世界じゃポジショニング的なことは重要だろ」 「あー、そういうもんなの? 俺公太郎さんしか知らないからそういうのは疎いわ」  自分しか知らない。その言葉が錦の胸に甘く突き刺さる。 「俺、別にどっちでもいいんだよ。あんたが好きだからさ。あんたが望むほうで構わないんだ。抱かれたいなら抱くし、抱きたいなら抱かれるし」 「抵抗ないのか? 抱くほうならまだ女を抱くのと似ているだろ。でも抱かれるのは」 「未知の体験だなぁ。流石の俺もちょっと緊張はしそう」  まだ知らぬ何かを想像して、省吾は苦い笑みを浮かべる。 「本当に緊張だけですむのか……? 少しでも嫌悪感があるなら……」 「嫌悪感なんてあるわけないだろ。そんなもんが微塵でもあるなら男のあんたを好きになってない。セックスのポジショニング? そんなもんに悩む時間は遠い昔に終わってる」  それでもまだ不安げな表情の錦に、省吾は畳みかけるように言った。 「それに俺、自分がされて嫌なことは公太郎さんにもしたくないから。あんたが俺にされて嫌じゃなかったことは、いくらでもしてくれていいよ」  省吾の言葉に迷いはない。ああ、こいつは本心で言っているんだと、ひねくれ者の錦の心にすんなりと響いた。 「ほんと、器がデカいよ。お前は」  打ち明けるか迷っていたことが馬鹿らしくなるほどだ。 省吾はきっといい男になる。まだ教師と生徒だった時代、そう思ったことが錦にはあった。あの時そう思ったのは間違いではなかったと過去の自分を褒めてやりたい。 「今夜お前のことを抱く」 「あいよ」 「言っておくけど抱きたいって衝動、数か月ため込んでいるからな。抱き潰されるくらいの覚悟はしておいてくれ」 「ちょ……流石に加減はしてくれよ? 俺そっちはマジで初めてなんだから」 「善処はする。お前もいつも言うだろ、善処はするって」 「えぇ……。やっぱ前言撤回してもいい?」 「そいつは無理な相談だな。男に二言はないだろ」 「……俺、公太郎さんによく善処はするって言ってきたけど、こんな不安になる言葉だとは思わなかったわ」 「ああ、身をもって知れよ?」  錦は愛おしい恋人の髪にキスをする。その仕草はガラス細工に触れる時のように優しい。  言葉とは裏腹な錦の態度に、省吾はくすぐったそうに笑う。男に抱かれるという初めての経験に、まるっきり不安がないかと問われれば、きっと答えはノーだろう。だがそれを感じさせない省吾に、錦はただただ愛おしさを募らせていく。改めて省吾が自分を好きになってくれたことに感謝するのだった。

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