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第11話
「……俺たちだけで簡単に決めて良いことじゃない。特にお前は母子家庭だろ。家を出るってことは、母親を一人にするってことだぞ」
省吾が母親思いなのを錦は知っている。
省吾がどうしようもなく荒れて傷害事件を起こした後も、母親だけは常に省吾の味方だった。何度も母を泣かせ、後悔した省吾は錦が勤める高校に編入するにあたり、心を入れ替えたのだ。
唯一の肉親であり理解者だった母を、省吾は幼い頃から守ろうとした。本人も無意識のうちに、亡き父の家族を守るという役目を果たそうとしていたようだ。その結果がこうして年上である錦を支え、肩を並べて歩んでいける男に成長させたのだが、それでも省吾にとって母という存在が特別なことに変わりはない。
「勢いだけで考えないで、周りを見ろ。大切なものは色々あるだろう」
錦は省吾を愛しているが、自分が省吾の足かせになるのなら多少は距離を置くつもりでいる。省吾の庇護の下は居心地が良いが、錦も男だと自負していた。省吾に守られたいと思うと同時に、守りたいとも思う。そしてそれは、省吾の未来や大切な人にも同じだ。
「一緒に暮らさなくてもお前とは付き合っていけるし、一人で生きていく力だってある。教職を選んだのだって食いっぱぐれないためだ」
ゲイだと早くから自覚のあった錦は、自分が家庭を持てないことを理解していた。恋をすることすら諦めていたので、一生一人だと覚悟していたこともある。だから省吾と生活を分けたとしても、恋人という肩書があるだけで充分幸せだった。
だが省吾は錦の言葉を否定する。
「あんたらしくない言葉だな。そんな良い子な仮面、今更着けんなよ。あんたの本音はそうじゃないだろ」
「そんなこと」
ない、と即答出来なかった。省吾の言葉を否定しなくてはいけないのに、省吾に見つめられるとどうしても言えなかった。大人しての錦は良識を持って省吾と接しようとしているのに、素の錦がそれを台無しにしようとしている。
省吾から将来一緒に暮らそうと言い出された時、本当は嬉しくてたまらなかった。省吾の唯一の肉親のことなど頭から飛んでいってしまい、自分の幸福のことしか考えらなかった。愛する人と生活を共にする喜びなど、一生縁がないと諦めていた錦にとって、省吾の言葉は告白された時と同じか、それ以上に錦を歓喜させた。
「あんたがさ、俺や母さんのことを考えてくれるのは嬉しいよ。でもそれであんたが遠慮するのは違うと思う。みんなにとって一番良い形を考えたらいいじゃないか。みんなが納得して、幸せになる方法を」
「簡単に言うけど、そんな形あると思うか?」
昨今マイノリティにも理解のある社会になってきたと思うが、それでもマジョリティのようにはいかない。
省吾の母親にとって、省吾は亡き夫の忘れ形見であり唯一の子供だ。省吾がどんなに荒れても投げ出さず、一心に愛を注いでいた。そんな親子の間に息子と同性で、十以上歳の離れた恋人など爆弾以外の何者でもない。
「あんたが思っているより俺の母さんは強いから大丈夫だって。それになんとなく、俺と公太郎さんの関係も勘付いているんじゃないかと……」
「……は? 勘付いているって、お前。もしかして話したのか⁉」
「もちろん直接恋人だなんて言ってない。でも高校卒業してからあんたと頻繁に会っているのは知ってる」
「な……」
錦は驚きで言葉が出ない。
「いや、だってさ。ダチすら碌に出来なくて遊びに出かけたこともなかった息子が、大学生になった途端、週に三日のペースで外泊してんだぜ。親としたらそら不審に思うだろ」
「それはまあ……」
「だから一回マジで問い詰められてさ。よその年頃の娘さんを妊娠でもさせたらって言われたんだけど、その時にポロッと」
「……聞くのが怖いんだが、ポロッと何を言った」
「相手は男で、母さんも会ったことのある公太郎さんだから安心しろって」
「それで安心できるわけないだろ!」
むしろなんで卒業後も頻繁に教師と会っているんだと思われるのがオチだ。
「まあ神妙な顔はしてたな。多分そこで勘付いたんじゃないかと」
「……俺は頭が痛い」
まさか速水家の中でそんな会話がなされているとは夢にも思わなかった。つい浮かれて頻繁に会っていたが、もっと思慮深くなるべきだったと罪悪感を覚える。
「確かにその時は複雑そうな顔してたけど、今じゃ普通にしてるぜ。むしろあんたに迷惑かけないようにって口酸っぱく言われてる。なんかもう、色々ありすぎて少々のことじゃ動じなくなってんだよ。あの強さは鉄の女って異名がついてもおかしくない」
「お前の親御さんがそうなったのは、全部お前が原因だろうが」
「そう。マジで迷惑かけまくったからな。だから今後は真っ当に生きて、心配はかけない」
「……男の俺と恋人になって、一緒に暮らそうって言っているのに、それが真っ当か?」
「真っ当だろ。ちゃんと自分で好きな人を見つけて、将来を共にしようって話だ。相手が女じゃなかったからおかしいなんて、そっちの方が筋が通らない」
射貫くような瞳は、省吾の信念を思わせる。自分は何も間違ったことはしていないと、はっきりとした意思が表れていた。
「元々働き始めたら家を出るって話だったんだ。最初は大学なんて行くつもりなかったから、高校卒業と同時に家を出ていた可能性もあった。だから俺が公太郎さんと一緒に暮らさなくても、母さんをあの家に残して家を出ることに変わりない。それが俺ら親子の約束だから」
「……それで俺に安心してお前と暮らせって?」
「あんたが嫌じゃなければな」
省吾は覚悟をしている。錦と恋人になった時か、指輪を渡した時か、いつからかは分からない。ただ錦を生涯のパートナーにすると、確固たる覚悟があった。
好きなんて言葉よりも余程強い省吾の覚悟に、錦の心が喜びに震える。
「年下のお前にそこまで言われて、腹を括らないわけにはいかないな」
「公太郎さん……」
「お前がそこまで覚悟決めてくれているなら、俺も覚悟を決めるよ。その時が来たら、きっちりお前の親御さんに挨拶しにいく。それが俺なりのけじめだ」
省吾にも、省吾の母親にもそうやって錦の覚悟を示す。二人の関係は気まぐれでも遊びでもないと誓うために。
省吾は錦を力強く抱き寄せた。言葉では表せない喜びを、省吾はこうやって錦に教えてくれる。
「ベッドも壊れそうだし、買い替えるついでに引っ越すか。このベッド、あと三年も持たないだろ」
「じゃあ今度の休みに不動産屋に行く? あと家具屋も。あんたには三年待ってもらうけど、先に新居生活始めておいてよ。俺、卒業したら転がり込むから」
「いいけど、意地でもあと三年で卒業しろよ。単位落としたらただじゃ済まさない」
「あー……まあ、多分。大丈夫、頑張る」
不安の残る返事だが、省吾がやるときにはやる男なのは知っている。そこに錦が絡むと、その行動力は計り知れない。
満ち足りた幸せに錦が浸っていると、省吾がゆっくりと身体を起こした。離れていく体温に少し寂しさを感じたが、その体温はすぐに錦の元へ、覆いかぶさるように戻ってくる。
「……お前、まさか」
「いや、だって。新居とかこんな甘い話してたらさ、抱きたくなってもしょうがないじゃん」
「さっきしないって言ってただろうが!」
「事情が変わった。やっぱあんたのこと抱くわ。あんたに抱かれるのも悪くないけど、俺の性分はこっちみたい」
「待て! マジで体力が持たない!」
「明日は膝ガックガクで授業頑張って。錦先生」
ニヤリと悪い笑みを浮かべた省吾が錦にキスをする。
これは本格的に明日が不安だ。膝がガクガクでは済まない気もする。
だが錦は省吾をはねのけなかった。明日のことは心配だが、錦自身も省吾を求めていたのだ。
明日のことも、まだ遠い未来も、不安なことはたくさんある。だが省吾と一緒なら、それも乗り越えていけると信じていた。
二人を隔てる境界線などもうないのだから。
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