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ナギ・シーティアローズ
波飛沫が高い。
海面が大きくうねる。うねった波が次々と城壁に押し寄せ、飛沫が打ち砕ける。
その時、一際大きな波が押し寄せた。
城壁には人が大勢並んでいる。波に攫われてしまう……!
だが人々は、打ち上がった飛沫に恐れをなすどころか、こぞって歓声を上げた。
「竜神さまの慈しみの心に感謝を」
濡れた地面に膝を折り、口々にそう唱える。
手のひらを合わせて頭を垂れ、海の竜神に祈っていた。
「どうか、王様の末永い健康を」
「どうぞバハル様の早い回復を。そして新王に、惜しみのない加護を」
「どうかこのバハル・アル・カワールに、竜神様のご加護を」
波飛沫が大きく城壁を超えた。
高い波が街の石畳を洗う。
高い太陽が照らし、街の至るところでキラキラと反射する。まるで光に呑まれたかのように、街中が眩しい。
「きれいだね……」
だだっ広い海の上からその光景を見ていたナギが呟く。
デープブルーの瞳が水面からの反射を受け、まるで彼の瞳に中にも海が広がっているかのようだ。
バハル家の特徴であるウェーブのかかった髪が、潮風に靡く。
次の瞬間、ナギの体が大きく揺れ、彼の体は振り落とされんばかりに傾いた。しかし彼が海に投げ出される心配はない。何しろ彼は丸ごと、海竜の加護 に守られているのだから。
「眩しすぎて私にはよく見えない。代わりによく見ておいてくれ」
海面が大きく動いたかと思うと、大きな目が海の中から現れた。
巨大な角に肢体を預けていたナギが笑う。
「竜神様、目を出さないと見えないのは当たり前だと思うけど」
大きな目がぎょろりと、海面で開く。ナギを見ようとして寄り目になる。その仕草が可愛いと、ナギはいつも思っていた。
「私は海の中が快適だ。陸に上がりたいと思わない。人間たちはどうしてあんな狭いところで、毎日毎日暮らしているのだろう。嫌にならないのか」
聞かれたナギは苦笑した。
広大な海の中を自由に泳ぐ竜と比べられたら、それはもうアル・カワールの島の暮らしなど、監獄の中と相違ないだろう。
「竜神様は他の国を見たこともあるんでしょう?海はずっと広く続いてるんだし」
「私はバハル・アル・カワールから離れない。それが兄弟たちとの約束だ」
「えっ、でも一度くらいはあるでしょう?だって竜神様は長生きなんだから」
竜神は神聖な生き物だ。長寿も人間の長さとは桁が違う。前の竜神も、約五千年の寿命をまっとうした。
「ない」
「ええっ?ほんとに一度も?」
竜神が首を振る。本人は軽く振っているつもりだ。しかしその水飛沫で、新たに大きな水飛沫が上がる。
振り落とされないよう、ナギが角にしがみつく。
例え振り落とされても、竜神の加護 に守られているので、泳げないナギが海に投げ出されても溺れる心配はない。
加護 が被った海水が落ちるのを待っていたナギは、その向こうの竜神の表情が、どこか悲しそうなことに気づいた。
きっと、もう海に帰っていった兄弟たちを想っているのだろう。
ナギはそっとその頬に触れた。
ゴツゴツしていて、皮膚はダイヤモンドのように硬い。体温は低く、温度らしい温度も感じられない。
いつか聞いたことがある。
竜の体内は燃え盛るマグマのように燃えていて、それを冷やすため、竜の血は凍るほど冷たいのだそうだ。だからもし温度が高ければ、何かの病気で、きちんと体温が冷やせてないことになる。
その燃え盛るマグマのような高温の体温が、竜神が宝石を生む大きな要因なのだ。
ナギは、ザラザラする皮膚を優しく撫でた。
竜神が大きな目を細め、彼のその優しさを甘受する。
ナギは幼い頃から、その胸いっぱいの優しさで溢れる子どもだった。竜神はそんな彼のことが大好きで、しょっちゅう城を抜け出した彼と、こうして海の散歩をしている。
「きっと遠くない未来に、あなたの家族も生まれるよ」
最後の一匹になった竜神が寂しい表情を見せるのを、最近よく見る。ナギはそのことがいつも気がかりだ。
「私の心配より……ナギ、今日は城にいなくて大丈夫なのか。シラの戴涙式 だろう」
「うん……」
途端、ナギの表情が曇る。
今日、彼の兄であるシラが、その胸の海の涙の花 を開花させ、王座につく。
「……父上に、今の立派なシラを見て欲しいよ。偉大な父上のようにって、シラは人の倍以上いつも頑張ってる。見てて、何も出来ない自分が歯痒くて恥ずかしい」
「ナギ……」
竜神はようやく分かった。歓声の上がる城の雰囲気の中に、ナギはそこにいたくなかったのだ。
「バハル王は相変わらず、竜涙石 のままなのか」
「うん……。毎日話しかけてるけど、答えてくれたことはない。……どうしよう竜神様。もしかして父上はもう……」
ナギの目に溜まった涙を見て、竜神は長い長い尾の先で波を打ちつけた。
高い水飛沫が太陽に届きそうなほど上がり、そして落下する。飛沫はキラキラと輝いて虹になった。
それを目撃したらしい街では、一際高い歓声が上がった。
「見ろ。虹だぞ」
それは泣き虫なナギを慰めるため、ナギが幼い頃から竜神が使ってきた手だ。
ナギは小さな笑みを浮かべた。
「竜神様、俺もう、小さな子どもじゃないよ」
「竜にとっては、ナギはまだほんの赤ん坊と同じだ。……あまり案ずるな。全てはこの大海原と同じ。例え、どんなに時化て荒れたとしても、そんな日は永遠には続かない。いつかは穏やかに凪ぐ日が来る」
祝事に浮かれる街の熱気は、その大海原の真っ只中にいても尚伝わってくる。
ナギは、遠くに聳え立つ城を眺めた。
太陽をめいっぱい浴びた城は、白真珠 のように白く光っている。
清廉潔白。一万年以上に渡り、何者にも穢すことのできなかったアル・カワール城。
もしも現在の城の真実を街の人々が知ってしまえば、彼らの希望は、泡となって消えてしまうだろう。
「……ギ。……ナ………ナギ」
いつの間にか、うたた寝をしてしまったらしく、ナギは竜神の声で起こされた。大海原の竜の頭の上で昼寝ができるのは、世界広しと言えど、ナギくらいである。
「……ん………どうしたの……?」
「ナギを呼んでる。まだ散歩したいか?」
「呼んでる……って、一体誰が……」
竜神が見ているのは、遠くの城だ。その視線の先を辿ったナギは、ぴたりと動きを止めた。
「狼煙だっ」
城の煙突からは、マリンブルーの煙が上がっている。
「城が光っていて、私には見えない。でも海藻の匂いがする。いつもお前を呼ぶ海藻の匂いだ」
狼煙は上空で不自然に流れを変え、やがて城壁までたどり着くと、煙は魚の姿になった。大量の魚が、城壁の上を走りながら島を一周し始める。
もし一周してしまえば、ナギにとってそれは困ったことになる始まりでもあった。
「竜神様っ。戻って戻って。城へ。早くっ」
あれは海雲 という狼煙で、それを上げるのは王族にしかできない。
ナギの色の狼煙が上がったということは、ナギが城から抜け出したことがバレたと言うことだ。
「散歩はもういいのか」
のんびりとナギにそう尋ねる竜神に、怒るにも怒れず、ナギは半泣きになりながら竜神を急かした。
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