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アル・カワールの王妃
アル・カワールの王妃
「バハル・ティンニーン・ナギ・シーティアローズ!」
頭上から降ってきた怒鳴り声に、ナギが身を縮ませた。
吹き抜けの階段上から怒鳴れば、下にいるもの皆に筒抜け。周囲では忍び笑いが起こり、執事や侍女たちが、笑いを堪えながらナギを見守っている。
「は、母上……。やぁ、今日も、珊瑚もびっくりするくらい綺麗だね」
ナギは階段上を見上げ、ぎこちない笑顔をつくった。
「ナァァーギィィー……」
「ど、どうしたのそんな怖い顔して……。やだなぁ母上、せっかくの美貌が台無しに、」
「ナギ・シーティアローズ。そこへお座りなさいっ」
「はいっ。アル・カワール王妃の仰せのままに」
ナギは諦め、大人しく長椅子 に腰掛けた。背を丸め、身を縮め、上目遣いに母親を申し訳なく見上げるのを忘れない。だが母親には、そんなナギの考えなどお見通しである。そんな見せかけの反省は通用しない。
王妃であり、母親であるオール・ローズクオーツは、質素だが品のあるドレスを翻し、一階へ降りてくる。
降りてくるなり、王妃は仁王立ちでナギの前に立った。その形の良い眉が跳ね上がっている。
母親なので当たり前だが、彼女の顔はナギに良く似ていた。
細い顎のつくる面立ちに、宝貝のようなカーブを描く、大きな目。
王族の特徴でもあるウェーブのかかった髪を背に長く垂らし、真っ白なリボンで緩く留めてある。
王妃が歩けば、ふわりふわりと、まるで白い綿毛が風に揺れるようだった。
王妃が怒る様子を見ていた周囲の侍女から、「怒ると体に良くありません」
「まぁまぁ、末の王子のマイペースぶりは、今に始まったことではないですから」
と、笑い混じりの声が上がる。
いつもなら、彼らが宥めれば、王妃の怒りのトーンも徐々に落ちていく。しかし今日の王妃のそれは、すぐには収まりそうになかった。
「今日が何の日か知っているわね」
「……はい」
「他でもない、あなたの兄上の、戴涙式 なのよ。それなのにあなたったら、朝からいつもみたいにフラッとどこかに行ったっきり、式の準備も手伝わないなんて」
「ごめんなさい……」
「どうして今日ぐらい、落ち着いて家にいられないの。あなたのための海雲 の狼煙が、歴代で圧倒的に回数が多いわ。一体何回、海雲の魚が島を一周したと思うの」
「ええと……に、に、さん回?……かなぁ?」
「両手があっても足りないくらいよっ」
「はいっ、ごめんなさい!」
「一周した魚たちが、あなたを探して街中を泳ぎ回った挙句、最終的に私の怒鳴り声が街に降り注いだの。あの時は街中が、笑い声で沸いたわね。執事のロバートが、地鳴りだと思ったくらい……」
遠い目をする王妃はもちろん、ナギを呼ぶ自身の怒声が、街中に響き渡りるとは思っていなかった。
「あ、覚えてるよそれ。母上のおかげで、街のみんなは一週間、ずっと笑いっぱなしで、幸せそうだったけど……」
睨まれたナギがすぐに口を噤む。
しばらくそうして怒っていた王妃だったが、怒ることにも疲れたのか、ただ深く息を吐いた。
彼女らしくない、疲れた表情に気づく。
「……何かあったの、母上」
いつもと少し様子が違う母親に遅ばせながら気づいたナギは、その手を取って長椅子 に導いた。
「……平気よ。少し興奮しすぎました。実は本土から親書がまた届いたの。本土は雨が降らなくて、各地で飢饉が増えているのだそうよ。バハル王に、竜神へ雨乞いを頼んでくれないかと、以前から何度も来ていたから」
「どんな内容だったの」
国の親書と言えば聞こえは品があるが、本土の神官から来るものには、内容が下品なことが多いのは有名な話だ。
脅しや脅迫めいた文面も多く、バハル王は見るのも嫌そうな顔で、封筒のまま暖炉に焚べていた。
そんなものと母親が顔を突き合わせなくてはいけないと思うと、胸が痛む。
だが王妃は心配する息子に、気丈に微笑んでみせる。
「そんなこと、あなたが気にしなくてもいいの」
「父上がいればきっと、そんなもの母上に見てほしくないはずだよ。燃やしてしまえばいいんだ」
「ああ……ナギ……」
ナギの瞳に宿った憤りを見た王妃は、嘆くように呟き、ナギを抱きしめた。
母の腕の中はいつも、我が子を思う愛しさで溢れている。
「あなたの支えが必要よ。私も、シラも。もちろんナーディアだって。ここにいてつらい、あなたの気持ちは分かってる。でも……、どうか遠くへ行かないで」
「分かっています。……ごめんなさい」
しんみりした空気を断ち切るように、王妃が元気な声を出す。
「宴は夜遅くまで続くから、今日はバハル王への報告は、早めに済ませておきなさい。私からの愛も、よく伝えておいてね」
「母上からの愛を、俺が父上に伝えるの?変だし、嫌だよそんなの」
うぇーという顔をする息子の頬を、王妃は優しく抓った。
「そんな顔で生意気なこと言ってると、バハル王に怒られるわよ。ほら、行きなさい。あまり長居はしないようにね」
目尻の涙を密かに拭き取って、ナギを送り出す。
部屋を出る息子の背ろ姿に、王妃は、島に古くからある祈りを捧げた。
王妃を見た侍女たちも、同じように祈りを捧げる。
「竜神様、どうか、私たちの子どもたちをお守りください……。どうか、このアル・カワールに、変わらない平穏を……」
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