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シラ・トワイライト

ナギは城の地下深く、階段を降りていた。歩くナギの先を越して、宙に浮かんだものに明かりが灯る。  綿々草(コットン・シーグラス)だ。  海藻の一種で、ふわふわと漂い、淡い青、緑、薄紅色、白など、さまざまな色で見る目を楽しませる。暗い海底などでも重宝する海藻で、乾燥させて使えば地上ではこんなふうに、一定の位置でずっと浮かんでいることができる。  ナギの靴音が、まるで数人が一斉に降りているかのように反響している。  階段は回廊になっていて、深い。  幼い頃は、地下の神聖な場所へと繋がるこの階段が、怖くて仕方がなかった。  一人では到底降りられず、父の肩の上に乗せられ、彼の頭にしがみついては笑われたものだ。 「こらナギ、これじゃ父が見えないじゃないか」 「……父上……」  ナギは立ち止まり、胸に込み上げてくる思いを我慢しなくてはいけなかった。  綿々草(コットン・シーグラス)の明かりが、ナギの瞳の中で滲んでいく。  まるで昨日のことのように思い出す父のその声を、もう長い間聞いていない。  もしかすると、もうこのまま、永遠に聞けないのかもしれない……。 「考えちゃダメだ……」  竜神様も言ってたじゃないか。時化が永遠に続くことはないって……。  城の地下には、洞窟が広がっている。  そこは海に繋がっていて、竜神が自由に出入りしていた。城に古くからいる者ですら、洞窟の全貌は把握できないほどの広さである。一度迷いこめば、竜神の助けなしでは外へ出ることすら難しい。  ナギもその昔、迷子になったひとりだ。しかも一度や二度ではない。  そもそも一人で地下への階段も降りられない彼が、なぜここで一人で迷子になったのか。  それはひとえに、弟を溺愛し過ぎて苛めた、兄であるシラ・トワイライトのせいである。  ナギが怖くて一人で眠れないと泣いてせがむ姿が見たいがための、計画的犯行であった。  迷子になったナギを探し回る大人たちを尻目に、ナギはいつも城の門から帰ってきた。竜神がナギを助け、ナギを城へ届けたからだ。シラの計画はことごとく失敗し、ついに母親にバレた彼はこっ酷く叱られた。  王である父のバハルは、母親に怒られ泣くシラと、兄が泣いたためつられて泣くナギを、一人ずつ左右の肩に乗せ、地下へ降りた。 「ナギは妙に竜神たちに好かれてるな。何か秘訣でもあるのか?」 「ひけつ?」 「ナギは泣き虫なんだ。だから女の子だって思われて、だから竜神たちもナギには優しいんだ」  シラが頬を膨らませていじけ、涙を乱暴に袖で拭く。  父親は困ったように、擦れて赤くなった息子の目元を覗きこむ。 「こら、擦ったらダメだ。痛くなるぞ後で。……おいで」  階段を降りきると、明かりが一斉に灯った。  その瞬間、洞窟を埋め尽くす宝石が、明かりを受けて煌めく。  洞窟のあちこちで、大小、そして色とりどりの宝石の原石が光り輝いている。  子どもたちは泣くことも忘れて、その光景に息を呑んだ。  父についてきて、何度も見ている。しかし何度見ても、圧倒される光景だった。  父親は膝を降り、湧水が出ている水溜まりでハンカチを濡らした。そしてそのハンカチで、赤く擦れたシラの目を優しく拭く。 「これは竜の祈りが込められた神聖な水だ。病気や怪我をあっという間に治してしまう」  シラの目元が濡れたハンカチに触れた途端、その赤みが消えていく。  ナギは目を輝かせた。 「父上、父上、それで竜神様の病気も治る?」 「病気?」 「大きな竜神様が言ってた。もうすぐ、石になっちゃうんだって。そういう、うーんと……“さだめ”なんだって。それって病気でしょ?僕、そんなの嫌だよ。もっと、大きな竜神様と遊びたい。このお水で拭いてあげたら、治る?」  父親が悲しそうな表情をし、ナギの頭を撫でた。 「ナギ……。残念だけど、その“病気”は、この水では治せない。……ごらん」  父親は、子どもたちを壁一面を埋め尽くす石の前に立たせた。 「この宝石たちは、かつて世界にいた生き物たちの最期の姿だ」 「この石が……?父上、でもこれ、宝石でしょ?アル・カワールじゃ、こういう石が、海底にもいっぱい生えてあるんだ。だから他の国は、この島を狙ってる」 「よく知ってるな、シラ。偉いぞ」 「へへ」  褒められたシラが誇らしげに鼻を啜る。  その横で、ナギが岩から突き出した宝石に触れ、目いっぱいの涙を浮かべた。 「どうしたんだ、ナギ」 「みんな……死んじゃったの……?」  父親は驚いた。普段からのんびりした性格で、何をするにも兄や姉の三歩後ろから追いかけているようなナギが、まさか死という概念を理解しているなんて――。  父親はしゃがみ込んで、涙でいっぱいのその瞳と目を合わせ、ナギの頭に手を置いた。 「命あるものはみんな、いつかは海に帰る。人間も竜も、魚や貝、それに海藻だって、その命をまっとうすると、みんな同じところへ帰るんだ。でもほら……、見てごらん」  父親が合図すると、綿々草が点滅し始めた。 「わぁぁ」 「きれいっ」  子どもたちが歓声を上げた。  綿々草の明かりの点滅に合わせ、洞窟の宝石が、まるで万華鏡のような光のダンスをしていた。 「きれいだろう?」 「うんっ。とっても」 「命は尊い。私はこの宝石たちを見るたび、命の儚さと、その美しさを実感するんだ」  宝石のダンスはしばらく続いた。  子どもたちの目に、涙はもうない。 「いいかい。シラ、ナギ」  父親に呼ばれ、シラもナギも、その大きな姿を見上げる。 「どんな時でも、助けあって暮らすんだ。家族を助け、島の民を助け、時には竜神だって助ける。そうして誰かの力になる人生を経て、こんなふうに輝く宝石になることができる」 「はいっ、父上」  シラが胸を張って顔を上げる一方で、ナギは俯いてしまう。 「どうしたんだ、ナギ」 「僕には無理だよ……。こんなふうに光る石にはなれない。だって僕、何をしても遅いんだもの……」  上の二人は母親の血を濃く受け継いだためか、揃って頭の回転が早く、同じ年頃の子より秀でているところが多い。対するナギは、歩くのも言葉を覚えるのも遅く、それはそれは母親を心配させた。  活発で積極的な兄と姉と育ったため、ナギの消極的な性格は、年々酷くなっている。  父親は突然、ナギを抱き上げた。  そのまま抱きしめ、幼い背中を大きな手のひらが撫でる。 「ずるいっ。僕も僕もっ」  シラの不満げな声に笑い、父親は順番だと言った。 「変化の風が吹いて、白波(シラ)が立つ。そして、例えどんなに時化ても、凪ぐ時は必ずくる。お前たちは二人でひとつ。助けあってこそ、全てが良くなる。覚えておくんだ。いいね?」  優しくも真剣な父親の声音に、シラもナギも頷く。 「…………来たか」  遠い過去の思い出の中にいたナギは、その声にハッと我に返った。 「シラ……」  兄であるシラ・トワイライトが、薄明かりのついた洞窟内で一人、岩に座っていた。  スラリとした体躯だが、幼い頃から剣術を学び、バランスよく筋肉がついている。見た感じ、見る者に細い印象は与えない。  バハル王に似た深い眼差しと、高い鼻梁。そして王妃である母親から受け継いだ、薄い唇と細い顎。  その美貌は島でも有名で、彼が稽古場に顔を見せようものなら、老若男女を問わず人が押し寄せる。  いつもは動きやすい、シンプルな格好を好むシラだが、今日は真珠(パール)のような純白の上下に、竜の模様をモチーフにした青色のマントを羽織っている。足元は、竜の鱗のブーツだ。  ナギは呆れて、皺になりかけている彼のマントを直した。 「ダメじゃないか、こんなふうに敷いたら……。ほら、立って。せっかくの衣装が台無しになる」  弟に言われて立ったシラは、眉根を寄せて兄の服装を直すナギの手を止めた。 「それより、父上に早く報告しよう。まだなんだろ?」 「それで待ってたの?言ってくれたら、式の後で一緒に来たのに」 「それじゃ遅い。誰より早く、父上に見てもらいたいんだ。この姿を。城の者より、島の民より早く。分かるだろ……。ナギなら」  ナギは、込み上げてくる想いを、再び我慢しなければならなかった。 「行こう」  二人は洞窟を進んだ。綿々草が灯るたび宝石が輝き、鮮やかに二人の影を彩る。  シラと並んでこの洞窟を歩くのは、久々だった。それが嬉しくなり、ナギは兄の腕に自身の腕を絡めた。 「なんだよ。子どもみたいに……。あっ、まさかいい年して、まだ洞窟が怖いんじゃないだろうな」 「へへへ。シラがいるんだから、平気だよ」 「まったく……、いつまでたってもお前は子どもみたいなんだから……。いい加減、甘ったれをどうにかしないと、いつまでも伴侶も見つからないぞ」 「それはシラが先でしょ。俺はのんびりと、シラとナディアの後で見つけるからいーの」 「すぐそれだ。母上がお前のことを、まるで小さい息子がいるみたいに心配するのも無理ない。竜神様と散歩するなとは言わないけど、母上をあまり心配させるんじゃない」 「分かってるよ……」 「すぐいじける」 「いじけてなんかないってば」  ムキになったナギの鼻を、シラが軽く摘む。  こんなふうに兄弟水入らずで話しをするのも、久々だった。  シラは王になるため、教養、作法、政治、そして竜神との対話など、寝る間もないほど日々忙しい。その合間に、本人の希望で剣術の稽古もこなす。ここしばらくはあまりにも多忙で、家族ですら彼と話す時間もなかったほどだ。  洞窟は段々と、気温が下がり始めた。外は初夏の陽気が漂っているにも関わらず、吐き出す息が白い。  チリチリとした冷気を感じたナギが身震いすると、シラがそんな弟の様子を確かめるように視線を送る。ナギは返事の代わりに、シラの手をぎゅっと握った。握り返してくれる兄の温度にホッと息を吐く。 「……入ろう」 「うん……」  扉は一面、水晶(クリスタル)で覆われている。鋭い水晶の原石は、少しでも触れれば怪我をしてしまう。 「バハル・ティンニーン・シラ・トワイライトがバハル王に謁見する」 「バハル・ティンニーン・ナギ・シーティアローズ、バハル王に謁見する」  王族の末裔の声に反応した水晶の扉が、重厚な音を立てて開いた。  白い冷気が、中からザッと逃げていく。  中はひんやりしているものの、凍えるような寒さではない。 「バハル王……。シラ・トワイライト、ご尊顔を拝します」 「父上……」 「こらナギ、バハル王の前だぞ」 「やめようよシラ。父上は、そういうの、きっと望んでないと思う。自慢の息子に会えて、きっと凄くうれしいはずだよ」 「ナギ……」 「ほら、見せてあげなよ」  最初は躊躇っていたシラも、心を決め、父であるバハル王に近づく。  王の前まで来ると、シラは片膝をついて拝した。 「バハル王……父上……」  王は何も言わない。  言えるはずがなかった。王の体は、真っ青な竜涙石(リュウルイセキ)と化していたからだ。 「父上……。父上の足元にも及ばない俺ですが、これから島を、民を守る王になります。どうか……どうかそこで見守ってください。あなたの息子として恥じないよう、このバハル・アル・カワールに尽くすことを誓います」  閉じた目は開くこともなく、石と化した手が息子の頭を撫でることもない。  バハル王は竜涙石と化して横たわり、その結晶は、日々、少しずつ周囲に広がっていた。まるで周囲を囲む洞窟の宝石たちと、同化しようとしているかのように。  バハル王が竜涙石となって、数年が経つ。  島の民には知らせていない。王は病気で、療養中だと告げている。  しかし長年姿を見せないせいで、王が不治の病ではという噂が、島で立ち始めた。それを打ち消すため、シラが戴涙式を行い、王として矢面に立つことになったのだ。 「父上……。俺たちは知ってるよ。父上は、そこでちゃんと聞いてるって。俺たちの声が聞こえてるって」  ナギの目尻から溢れた雫を見て、苦笑したシラがそれを拭う。 「晴れの日だぞ」 「分かってる。ごめん……」 「父上、ナギは相変わらず、いつまで経っても泣き虫のままです」 「ちょっ、そんなこと、父上に言わないでよ。ほんとだと思われたらどうするの」 「ほんとのことだろ。この前だって、ナディアに泣かされてたくせに」 「あれはナディアが悪いんだよ!だって俺が大事にしてるの知ってて、砂糖草(シュガーグラス)を食べようとするんだ。貴重な標本なのに……」 「それで、砂糖草を食べない代わりに、何を差し出せって言われたんだ」 「白乳シダ。肌にいいからって。あれだって、希少な海藻なのに……」 「相変わらずだな。ナディアに計られたんだ。あいつは最初から、ナギのコレクションの白乳シダを狙ってたんだよ。でもお前が頷くわけもないから、計画を練ったわけだ」 「酷いよナディア……。海藻集めは、俺の唯一の楽しみなのに……」 「竜神様に言って、また集めてもらえばいいだろ」 「そういうことじゃないよもう……」 「分かった分かった。父上の前で喧嘩はしないぞ。俺まで子どもみたいだと思われたら嫌だからな」 「酷いや。ひとの気も知らないでシラったら……、ねぇ、父上?」  ナギが手を伸ばし、父親の手に触れる。しかしかつて誰よりも暖かく、大きく包んでくれたそこは、今は冷たく、鉱物の煌めきが反射するだけだ。 「ナギ……」  シラが慰めるようにナギを抱き寄せ、兄弟はしばし、互いの肩と頭に互いを預け合った。分かち合う思いが、山ほどある。 「俺には分かるよ。父上は、シラを誇らしく思ってる」 「そうだといいけどな」 「もちろんだよ。だってシラが自分を犠牲にして、これまでも頑張ってきたの、父上だって知ってる」 「ありがとう、ナギ。でも大事なのはこれからだ。本国の揺さぶりは強くなる一方だ。もしバハル王がこんな姿になっていると知られでもすれば、奴らはおそらく強行手段に出る。そうなれなれば海は汚れ、島の民が傷つく。それだけは避けなければ」 「シラ……。大丈夫だよ。シラならきっと、父上と同じような立派な王になるよ」 「俺だけじゃ無理だよ。ナギやナディア、そして母上に竜神様。この島にいる皆の力をひとつにしなければ。……頼りにしてるからな、ナギ」 「俺にできることなら、全身全霊でシラのために頑張る」  兄弟は父親の前で、固く絆を結び合った。

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