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戴涙式

 シラの戴涙式(タイルイシキ)は、全て滞りなく進んでいた。  古いしきたりに則った手順で、司祭に祝詞を受けたシラが、城の外に向かう。  真っ白な礼服に、真っ青なマントを羽織るシラを見た島の民からは、割れんばかりの拍手と歓声が上がった。  人々によって、花びらが至るところでばら撒かれ、上昇気流に乗ったそれらが、ひらひらと宙を舞う。  アル・カワール全体が花の祝福を受けたかのような光景に、島の民は感動の涙を浮かべた。 「新アル・カワール王に祝福を」 「王に祝福を」  舞い落ちる花吹雪の中、シラは笑顔で手を振りながら、城壁へと向かった。  島を囲う壁の一角にある、海へと突き出た桟橋のような橋。  欄干はなく、足を滑らせれば海へと真っ逆さまなそこは、特別な行事の際にだけ開かれる。 「……見ろ!竜神様だ!」 「ああ……、王を祝福に、顔を出してくださった」 「竜神様ぁ……、どうか島を、いつまでもお守りください」  遠くで、海からニョキっと出た、大きな角。  ナギをその頭に乗せていた、あの竜神である。  竜神様の演技も、板についてきたなぁ……。  シラの側で大人しく控えていたナギは、その演出に妙な感心さえ覚えた。  鮮やかな新緑の礼服に身を包んだナギの顔は、すっぽりとベールで覆われている。これも古いしきたりが残ったもので、元は、王以外の顔を晒さないことで、内乱などで王族の血を奪われないようにするためのものだった。  今では本当にただのしきたり上のもので、顔を隠したところで、王族の顔は島の民全てが知っていたし、特に三人の子どもたちについては、自分の庭と同じくらい、毎日のように街をほっつき歩いている。街に彼らを知らない者はいない。 「ちょっとナギ、どこ見てるの。転ぶわよ」 「転んだりしないよ、ナディア。そんな、子どもじゃないんだから……わっ」  言った側から、ナギが段差に躓く。  隣で姉のナーディア・モルガナイトが、薄いベールの下でほくそ笑むのが分かった。 「すっ転んで、式を爆笑の渦に巻き込んでもよかったのに」 「シラの大事な日に、なんてこと言うの。見た目がせっかく母上に似たのに、口を開けばそんなことばっかり言ってるから、二十四になっても伴侶が見つからないって、母上が嘆いてたよこの間も」 「あら、私の心配は不要よ。父上と母上から受け継いだこの美貌で、引く手あまただもの。心配なのは、堅物のシィ(にい)と、どこまでもぼんやり坊ちゃんなナァちゃんの方よ」 「……その呼び方、やめてって言ってるのに……」 「童貞を捨てたら、考えてあげるわ」 「なっ……!ナディア姉さん!式典の最中に何言ってるのっ」  誰が聞いているとも限らないこんな場所で、なんてことを口にするのだこの姉は……!  神官の一人が、控えめな咳払いをした。ナギの声が目立ったせいだ。だが原因の、姉であるナディアのことは、誰も注意などしない。ナディアはナギにしか聞こえない音量で喋っていたためだった。幼い頃から、そつなく何でもこなす姉は、器量が良いうえ、その要領もすこぶる良い。 「姉さんのせいで怒られたじゃないか……」 「ナギの声が大きいせいでしょ」 「……腹黒」 「内臓が詰まってる魚ほど、美味しいのよ」  周囲には決して聞こえない声で、ナディアが鼻で嗤う。言い返す言葉が見つからず、ナギはグッと喉を鳴らした。  チクリと刺すくらいの嫌味では、この姉には全く通用しない。  ナディアに敵うのは、この世界で、アル・カワール王妃だけだと、ナギはそう思っている。 「竜神様の祝福だ!」  周囲から、一際大きい歓声が上がった。  シラのところまで近づいてきた竜神が、その大きな尾で水面を叩き、波飛沫を上げる。  虹の飛沫を浴びた人々が、海に向かって跪き、拝する。  竜神の起こした波飛沫は、海からの祝福。  島の信仰は、いつも海と、そして竜神と共にあった。 「……シラ兄、大丈夫かしら」  ナディアの呟きを聞いたナギは、小さく首を傾げた。 「シラは落ちたりしないよ。それにもしも海に落ちたって、海には竜神様がいるし、シラは泳ぐのも上手いし……ダッ」  隣から入った肘鉄に、ナギが呻く。  日頃から厳しい神官の数度目の咳払いが聞こえて、ベールの下で涙目になりながら、ナギは何とか立ち直した。 「鈍いにもほどがあるわよ、ナァちゃん」  言葉こそいつもの姉のものだったが、その声には心配が滲んでいた。 「父上が戴涙式を終えた時はもう、ナギがお母様のお腹の中にいたの。二人は既に生涯を共にする伴侶だった。でもシィ兄は、まだ見つけてすらいない」 「なんだ。そんなことか……。心配いらないよ。だってシラは、島中の皆に好かれてる。伴侶だって、見つかるのも時間の問題だよ」 「ほんっっとーにお気楽ね、ナギ」  ナディアが深い溜め息をつく。  彼女のピンクパールのベールがその息で、そよ風に吹かれたかのように揺れた。 「父上には、大変な時に、お母様という支えがあったの。シィ兄はこれから、時化て荒れ狂う海を航海するのよ。シィ兄はたった一人で、その航海をしようとしてる」 「ナディア……」  いつもは見せない、ナディアの、内に秘めた想いを垣間見た気がした。だがナディアは、すぐにそんな自身に気づき、再び彼女のいつもの殻で心を覆う。普段彼女は、弱い部分を決して他の人に見せない。 「伴侶の問題にしても、シィ兄の伴侶になるなら、そんじょそこらの相手じゃダメなのよ。分かるでしょ。見た目からして、まずはこの私くらいの美しさがないと」 「そんな人、この島にはいないでしょ……。伴侶なしの航海じゃツラいって、自分で言っといてもう……」 「美貌が無理でも、せめて私くらいの度胸と愛嬌がなきゃね」 「それも無理……」  ナギも普通を装って会話したが、頭の中では、ナディアの言葉が反芻していた。  シラはまだ、王になるには若すぎる。  一部の神官たちの間には、シラの戴涙式に反対の声も上がった。  その声を鎮めたのは、王妃と竜神だった。  島の守り神であり、信仰の象徴である竜神がシラを王にと言えば、神官たちが逆らえるはずもない。  これからシラは、バハル王の秘密を抱えながら、島のことや民のことを導いていかなければならない。  ナギにできることなど、たかが知れている。  せいぜい、シラの前でドジを踏み、彼の心からの笑顔を引き出すことしかできないだろう。  ……竜神様に、シラを助けてもらえるよう、今日から今までよりもっと、お祈りしよう。  祈りの想いは、必ず竜神の元へ届く。そしてその想いは、竜神の力になる。力が強くなればなるほど、きっとシラのことも守ってもらえるはずだ。 「始まるわ……。行きましょう」  ナギとナディアはシラの待つ橋へ向かった。神官たちがその後を追う。  いよいよ、戴涙式の要でもある、竜の涙を戴く儀式が、これから始まろうとしていた。 「シィ兄、緊張してるの?」 「あ、ナディア、ダメだよ。今シラに話しかけちゃ」  儀式の間は、竜の涙を戴く者は、声を発してはいけないしきたりだ。  しかしそんなナギの忠告もどこ吹く風。  ナディアは構わず、後ろからシラに話しかけた。 「心配無用よ、シィ兄。もし竜神様がシィ兄の中に涙を見つけなくても、ここに泣き虫ナギがいるからね。代わりに共鳴すれば、竜神様だって、ナギの中の泣き喚く虫に触れて、滝のように涙を流すわよ」 「ちょっとナディア、代わりなんてできるわけないでしょ。戴涙式なんだよ?また訳わかんないこと言って、シラの儀式に影響があったらどうするの」  珍しく、本気で怒りだしたナギを見て、ナディアが溜め息とともに肩を竦める。 「まったくもう、こんな繊細な儀式の最中に、シラの邪魔しないで」 「あら、邪魔なんてしてないわよ。大体、戴涙式の際に傍にいて欲しいって言ったのは、シィ兄の方なんだもの。私がここにいて、シィ兄だってどんなに心強いことか」 「そんなの、俺だって、シラに頼まれてここにいるんだ。シラが頼んだのは、ナディアだけじゃないんだから」 「いい度胸ね。私と張り合う気?泣き虫ナァーギ」 「いつまでも小さい子どもの頃のあだ名で呼ぶの、やめてってばっ」 「…………震えてる」 「はぁ?そんなわけないでしょう。いつもいつも、俺がナディアを怖がると思ったら大間違いなんだからな」 「違うわ。バカね。シィ兄よ」 「シラ?」  目をやると、確かにシラの肩が小刻みに震えていた。  それは彼が、笑いを必死で堪えている証だった。 「どーするの、もうっ。ナディアのせいだからね」 「しっ、静かに。竜神様のお出ましよ」  わぁぁぁ……どうしようっ。シラ、大丈夫かな。  だがシラの肩は、まだ小刻みに震えていた。  ダメだ。少しだけでいいから、竜神様に時間を稼いでもらわないと!  ナギの心の叫びはもちろん、竜神には届かなかった。  海の中から姿を表した竜神が、ゆっくりとシラの元へ近づいていく。  戴涙式では、竜と共鳴し、竜神にその心に触れてもらわなけばならない。  竜神は、共鳴した者の心の奥深くを探る。  本人ですら気づかないような悲しみや、痛み、そして優しさなどに触れる一方で、周囲の人間の知らない、または本人ですら気づかない、その者の邪悪な本質に触れることもある。  共鳴した竜神がその者を王に相応しいと思えば、涙を流す。  涙は地上で結晶になる。その結晶が、王の家系が必ず体のどこかに生まれ持つ、海の涙の花《シーティアローズ》の蕾を花咲かせる。  歴代の王となった者に、竜の涙が与えられなかった者などいない。  竜の涙が与えられず、体の花が咲かずとも王になることはできるが、竜神の加護なしで、竜神によって守られているアル・カワールを統治することなど、できないに等しい。  笑いを堪えながら臨む式などでは、決してないのだ。  人々が固唾を呑んで、この先を見守っていた。  式の真っ只中、動くにも動けない。  隣では、ことの発端の姉のナディアが、興味深そうにことの成り行きを見守っている。  ナギはベールの下から、恨みがましい目で姉を睨んだ。  竜神が、のっそりと、島から飛び出た橋まで顔を見せる。見守っている人々のなかには、その姿を目にし、涙する者も少なくない。  竜神は普段、島の周囲の海の中を回遊している。角だけ、目だけなら見る機会もあるものの、島の人々がその顔を拝むことは稀だ。  竜神が島の周囲を絶えず泳ぎ回ることで生まれる海流が、本土や他国からの侵略、危険な海の生物から、島の安全を守っている。  竜神が泳ぎを止めれば、島に危険が及ぶ。  よって、竜神がその泳ぎを止める戴涙式は、少しでも無駄なく、スムーズに執り行う必要がある。 「海は大丈夫かな……」  先ほほどから、ナギは海の様子も、シラと同じくらい気になっていた。  竜神が泳ぎ回るのをやめても、島の周囲を渦巻く海流はすぐに止まったりしない。海は繋がり、絶えず流動しているからだ。 「余計な心配しなくていいの。集中しなさいな。……見て。竜神様がシィ兄と共鳴し始めた」  竜神の角が光を帯び、その向かいのシラの体も同じ光に包まれていく。  シラの目蓋が閉じた。肢体から力が抜けたままで、彼の体が少し宙に浮く。  辺りには、奇妙な音が響きだした。  海中で光合成をする海藻たちの呼吸。  魚たちの吐き出す酸素(バブル)。  イルカたちの声。  鯨たちの声。  まるでこの地上一帯が、海の中になったような音たち。  全ての雑音が消え、しかし生き物たちの生きているその音が、波の合間に、ナギの耳に漂う。  不思議な感覚だった。  その心地よさに、ナギが目を閉じる。  ……昔、まだナギが小さかった頃、竜神たちと海の散歩に出かけた。  数日前から天気がぐずついており、竜神たちは渋ったが、目をうるうるさせたナギにせがまれ、仕方なく向かったのだ。  海は竜神の一部だ。竜神も海の一部。  万が一、荒れた海にナギが落ちたとしても、ナギが溺れたりしないよう、竜神はナギに守護(シールド)をかけて散歩していた。  ナギがその声を聞いたのは、本当に偶然だった。 「……た……けて」  波の音の合間に、微かに聞こえた、助けを求める声。  ……ってあれ……?そういえばあの後、どうなったんだっけ?  ……ああ、思い出した。  助けを求めていたのは、どう見ても島の者ではなかった。  どうも難破した船から投げ出され、なぜか彼だけ、海流に逆らって島の周辺を彷徨っていたらしい。  島の者たちを守るのが、竜神たちが過去に交わした約束である。  竜神には、島の者とそうでない者の区別がつく。  見捨てようとする竜神たちに、ナギは泣きながら訴えた。 「見てよ。彼だって、僕や島のみんなと変わらないよ。せっかく助けられるのに、見捨てるなんてダメだよ。お願いだから、助けてあげて」  どうして、あの時のことを今思い出したのか分からない。  ナギが目を開けると、周囲の皆も似たような感覚を味わっているのが分かった。  ある者は号泣したり、またある者は静かに涙を流している。  そうだ。シラは……。  シラは竜神と向き合っているため、ナギたちからその表情を伺うことができない。  だがもう彼の肩は、笑いを堪えて震えてはいなかった。ちゃんと竜神と共鳴できたのだ。ホッと胸を撫で下ろす。  聞こえていた海の中の生命の音が、徐々に消えていく。  静寂が辺りを包んだ。  シラの足が地につき、彼が彼自身の力でそこに立つ。 「アル・カワールの守り神よ。私の心の深海は、そなたの海に相応しいだろうか」 「うむ。相応しい」  一言一言、心臓を震わせるような低い声だった。しかしこれは竜神の演技だ。ナギは知っている。本当の竜神の声は、これほど畏怖するような声ではない。もっと親しみやすく、優しいものだ。  事前の打ち合わせで、きっと王妃から頼まれたのだろう。  威厳ある声で喋ってくれ。  威厳ある感じで出てきてくれ。  きっと、そういう要求が出されたに違いない。  皆、竜神に騙されている。  そう思うと、少しおかしかった。 「汝の海の涙の花(シーティアローズ)に、竜の涙を与えよう」  竜神の瞳から、大きな雫が溢れた。  光り輝く雫は、ギュッと凝縮され、深い青色の石になる。  雫の形をしたその石は、最終的に、たった指の幅ほどの宝石になった。 「目を閉じよ」  言われた通り目を閉じたシラに近づいた宝石が、スッと、彼の腹の辺りに入っていく。  シラの体が一瞬、光り輝いた。 「そなたの(シーティアローズ)は咲いた。そなたは紛れもなく、アル・カワールの王の末裔である」  しばらく呆然としていたシラだったが、ハッと我に返ったように跪いた。 「アル・カワールに祝福を」  辺り一帯を揺らすような歓声と共に、大量の花吹雪が舞った。  シラの戴涙色はこうして、無事に終わったのだった。

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