4 / 32
戴涙式
シラの戴涙式 は、全て滞りなく進んでいた。
古いしきたりに則った手順で、司祭に祝詞を受けたシラが、城の外に向かう。
真っ白な礼服に、真っ青なマントを羽織るシラを見た島の民からは、割れんばかりの拍手と歓声が上がった。
人々によって、花びらが至るところでばら撒かれ、上昇気流に乗ったそれらが、ひらひらと宙を舞う。
アル・カワール全体が花の祝福を受けたかのような光景に、島の民は感動の涙を浮かべた。
「新アル・カワール王に祝福を」
「王に祝福を」
舞い落ちる花吹雪の中、シラは笑顔で手を振りながら、城壁へと向かった。
島を囲う壁の一角にある、海へと突き出た桟橋のような橋。
欄干はなく、足を滑らせれば海へと真っ逆さまなそこは、特別な行事の際にだけ開かれる。
「……見ろ!竜神様だ!」
「ああ……、王を祝福に、顔を出してくださった」
「竜神様ぁ……、どうか島を、いつまでもお守りください」
遠くで、海からニョキっと出た、大きな角。
ナギをその頭に乗せていた、あの竜神である。
竜神様の演技も、板についてきたなぁ……。
シラの側で大人しく控えていたナギは、その演出に妙な感心さえ覚えた。
鮮やかな新緑の礼服に身を包んだナギの顔は、すっぽりとベールで覆われている。これも古いしきたりが残ったもので、元は、王以外の顔を晒さないことで、内乱などで王族の血を奪われないようにするためのものだった。
今では本当にただのしきたり上のもので、顔を隠したところで、王族の顔は島の民全てが知っていたし、特に三人の子どもたちについては、自分の庭と同じくらい、毎日のように街をほっつき歩いている。街に彼らを知らない者はいない。
「ちょっとナギ、どこ見てるの。転ぶわよ」
「転んだりしないよ、ナディア。そんな、子どもじゃないんだから……わっ」
言った側から、ナギが段差に躓く。
隣で姉のナーディア・モルガナイトが、薄いベールの下でほくそ笑むのが分かった。
「すっ転んで、式を爆笑の渦に巻き込んでもよかったのに」
「シラの大事な日に、なんてこと言うの。見た目がせっかく母上に似たのに、口を開けばそんなことばっかり言ってるから、二十四になっても伴侶が見つからないって、母上が嘆いてたよこの間も」
「あら、私の心配は不要よ。父上と母上から受け継いだこの美貌で、引く手あまただもの。心配なのは、堅物のシィ兄 と、どこまでもぼんやり坊ちゃんなナァちゃんの方よ」
「……その呼び方、やめてって言ってるのに……」
「童貞を捨てたら、考えてあげるわ」
「なっ……!ナディア姉さん!式典の最中に何言ってるのっ」
誰が聞いているとも限らないこんな場所で、なんてことを口にするのだこの姉は……!
神官の一人が、控えめな咳払いをした。ナギの声が目立ったせいだ。だが原因の、姉であるナディアのことは、誰も注意などしない。ナディアはナギにしか聞こえない音量で喋っていたためだった。幼い頃から、そつなく何でもこなす姉は、器量が良いうえ、その要領もすこぶる良い。
「姉さんのせいで怒られたじゃないか……」
「ナギの声が大きいせいでしょ」
「……腹黒」
「内臓が詰まってる魚ほど、美味しいのよ」
周囲には決して聞こえない声で、ナディアが鼻で嗤う。言い返す言葉が見つからず、ナギはグッと喉を鳴らした。
チクリと刺すくらいの嫌味では、この姉には全く通用しない。
ナディアに敵うのは、この世界で、アル・カワール王妃だけだと、ナギはそう思っている。
「竜神様の祝福だ!」
周囲から、一際大きい歓声が上がった。
シラのところまで近づいてきた竜神が、その大きな尾で水面を叩き、波飛沫を上げる。
虹の飛沫を浴びた人々が、海に向かって跪き、拝する。
竜神の起こした波飛沫は、海からの祝福。
島の信仰は、いつも海と、そして竜神と共にあった。
「……シラ兄、大丈夫かしら」
ナディアの呟きを聞いたナギは、小さく首を傾げた。
「シラは落ちたりしないよ。それにもしも海に落ちたって、海には竜神様がいるし、シラは泳ぐのも上手いし……ダッ」
隣から入った肘鉄に、ナギが呻く。
日頃から厳しい神官の数度目の咳払いが聞こえて、ベールの下で涙目になりながら、ナギは何とか立ち直した。
「鈍いにもほどがあるわよ、ナァちゃん」
言葉こそいつもの姉のものだったが、その声には心配が滲んでいた。
「父上が戴涙式を終えた時はもう、ナギがお母様のお腹の中にいたの。二人は既に生涯を共にする伴侶だった。でもシィ兄は、まだ見つけてすらいない」
「なんだ。そんなことか……。心配いらないよ。だってシラは、島中の皆に好かれてる。伴侶だって、見つかるのも時間の問題だよ」
「ほんっっとーにお気楽ね、ナギ」
ナディアが深い溜め息をつく。
彼女のピンクパールのベールがその息で、そよ風に吹かれたかのように揺れた。
「父上には、大変な時に、お母様という支えがあったの。シィ兄はこれから、時化て荒れ狂う海を航海するのよ。シィ兄はたった一人で、その航海をしようとしてる」
「ナディア……」
いつもは見せない、ナディアの、内に秘めた想いを垣間見た気がした。だがナディアは、すぐにそんな自身に気づき、再び彼女のいつもの殻で心を覆う。普段彼女は、弱い部分を決して他の人に見せない。
「伴侶の問題にしても、シィ兄の伴侶になるなら、そんじょそこらの相手じゃダメなのよ。分かるでしょ。見た目からして、まずはこの私くらいの美しさがないと」
「そんな人、この島にはいないでしょ……。伴侶なしの航海じゃツラいって、自分で言っといてもう……」
「美貌が無理でも、せめて私くらいの度胸と愛嬌がなきゃね」
「それも無理……」
ナギも普通を装って会話したが、頭の中では、ナディアの言葉が反芻していた。
シラはまだ、王になるには若すぎる。
一部の神官たちの間には、シラの戴涙式に反対の声も上がった。
その声を鎮めたのは、王妃と竜神だった。
島の守り神であり、信仰の象徴である竜神がシラを王にと言えば、神官たちが逆らえるはずもない。
これからシラは、バハル王の秘密を抱えながら、島のことや民のことを導いていかなければならない。
ナギにできることなど、たかが知れている。
せいぜい、シラの前でドジを踏み、彼の心からの笑顔を引き出すことしかできないだろう。
……竜神様に、シラを助けてもらえるよう、今日から今までよりもっと、お祈りしよう。
祈りの想いは、必ず竜神の元へ届く。そしてその想いは、竜神の力になる。力が強くなればなるほど、きっとシラのことも守ってもらえるはずだ。
「始まるわ……。行きましょう」
ナギとナディアはシラの待つ橋へ向かった。神官たちがその後を追う。
いよいよ、戴涙式の要でもある、竜の涙を戴く儀式が、これから始まろうとしていた。
「シィ兄、緊張してるの?」
「あ、ナディア、ダメだよ。今シラに話しかけちゃ」
儀式の間は、竜の涙を戴く者は、声を発してはいけないしきたりだ。
しかしそんなナギの忠告もどこ吹く風。
ナディアは構わず、後ろからシラに話しかけた。
「心配無用よ、シィ兄。もし竜神様がシィ兄の中に涙を見つけなくても、ここに泣き虫ナギがいるからね。代わりに共鳴すれば、竜神様だって、ナギの中の泣き喚く虫に触れて、滝のように涙を流すわよ」
「ちょっとナディア、代わりなんてできるわけないでしょ。戴涙式なんだよ?また訳わかんないこと言って、シラの儀式に影響があったらどうするの」
珍しく、本気で怒りだしたナギを見て、ナディアが溜め息とともに肩を竦める。
「まったくもう、こんな繊細な儀式の最中に、シラの邪魔しないで」
「あら、邪魔なんてしてないわよ。大体、戴涙式の際に傍にいて欲しいって言ったのは、シィ兄の方なんだもの。私がここにいて、シィ兄だってどんなに心強いことか」
「そんなの、俺だって、シラに頼まれてここにいるんだ。シラが頼んだのは、ナディアだけじゃないんだから」
「いい度胸ね。私と張り合う気?泣き虫ナァーギ」
「いつまでも小さい子どもの頃のあだ名で呼ぶの、やめてってばっ」
「…………震えてる」
「はぁ?そんなわけないでしょう。いつもいつも、俺がナディアを怖がると思ったら大間違いなんだからな」
「違うわ。バカね。シィ兄よ」
「シラ?」
目をやると、確かにシラの肩が小刻みに震えていた。
それは彼が、笑いを必死で堪えている証だった。
「どーするの、もうっ。ナディアのせいだからね」
「しっ、静かに。竜神様のお出ましよ」
わぁぁぁ……どうしようっ。シラ、大丈夫かな。
だがシラの肩は、まだ小刻みに震えていた。
ダメだ。少しだけでいいから、竜神様に時間を稼いでもらわないと!
ナギの心の叫びはもちろん、竜神には届かなかった。
海の中から姿を表した竜神が、ゆっくりとシラの元へ近づいていく。
戴涙式では、竜と共鳴し、竜神にその心に触れてもらわなけばならない。
竜神は、共鳴した者の心の奥深くを探る。
本人ですら気づかないような悲しみや、痛み、そして優しさなどに触れる一方で、周囲の人間の知らない、または本人ですら気づかない、その者の邪悪な本質に触れることもある。
共鳴した竜神がその者を王に相応しいと思えば、涙を流す。
涙は地上で結晶になる。その結晶が、王の家系が必ず体のどこかに生まれ持つ、海の涙の花《シーティアローズ》の蕾を花咲かせる。
歴代の王となった者に、竜の涙が与えられなかった者などいない。
竜の涙が与えられず、体の花が咲かずとも王になることはできるが、竜神の加護なしで、竜神によって守られているアル・カワールを統治することなど、できないに等しい。
笑いを堪えながら臨む式などでは、決してないのだ。
人々が固唾を呑んで、この先を見守っていた。
式の真っ只中、動くにも動けない。
隣では、ことの発端の姉のナディアが、興味深そうにことの成り行きを見守っている。
ナギはベールの下から、恨みがましい目で姉を睨んだ。
竜神が、のっそりと、島から飛び出た橋まで顔を見せる。見守っている人々のなかには、その姿を目にし、涙する者も少なくない。
竜神は普段、島の周囲の海の中を回遊している。角だけ、目だけなら見る機会もあるものの、島の人々がその顔を拝むことは稀だ。
竜神が島の周囲を絶えず泳ぎ回ることで生まれる海流が、本土や他国からの侵略、危険な海の生物から、島の安全を守っている。
竜神が泳ぎを止めれば、島に危険が及ぶ。
よって、竜神がその泳ぎを止める戴涙式は、少しでも無駄なく、スムーズに執り行う必要がある。
「海は大丈夫かな……」
先ほほどから、ナギは海の様子も、シラと同じくらい気になっていた。
竜神が泳ぎ回るのをやめても、島の周囲を渦巻く海流はすぐに止まったりしない。海は繋がり、絶えず流動しているからだ。
「余計な心配しなくていいの。集中しなさいな。……見て。竜神様がシィ兄と共鳴し始めた」
竜神の角が光を帯び、その向かいのシラの体も同じ光に包まれていく。
シラの目蓋が閉じた。肢体から力が抜けたままで、彼の体が少し宙に浮く。
辺りには、奇妙な音が響きだした。
海中で光合成をする海藻たちの呼吸。
魚たちの吐き出す酸素 。
イルカたちの声。
鯨たちの声。
まるでこの地上一帯が、海の中になったような音たち。
全ての雑音が消え、しかし生き物たちの生きているその音が、波の合間に、ナギの耳に漂う。
不思議な感覚だった。
その心地よさに、ナギが目を閉じる。
……昔、まだナギが小さかった頃、竜神たちと海の散歩に出かけた。
数日前から天気がぐずついており、竜神たちは渋ったが、目をうるうるさせたナギにせがまれ、仕方なく向かったのだ。
海は竜神の一部だ。竜神も海の一部。
万が一、荒れた海にナギが落ちたとしても、ナギが溺れたりしないよう、竜神はナギに守護 をかけて散歩していた。
ナギがその声を聞いたのは、本当に偶然だった。
「……た……けて」
波の音の合間に、微かに聞こえた、助けを求める声。
……ってあれ……?そういえばあの後、どうなったんだっけ?
……ああ、思い出した。
助けを求めていたのは、どう見ても島の者ではなかった。
どうも難破した船から投げ出され、なぜか彼だけ、海流に逆らって島の周辺を彷徨っていたらしい。
島の者たちを守るのが、竜神たちが過去に交わした約束である。
竜神には、島の者とそうでない者の区別がつく。
見捨てようとする竜神たちに、ナギは泣きながら訴えた。
「見てよ。彼だって、僕や島のみんなと変わらないよ。せっかく助けられるのに、見捨てるなんてダメだよ。お願いだから、助けてあげて」
どうして、あの時のことを今思い出したのか分からない。
ナギが目を開けると、周囲の皆も似たような感覚を味わっているのが分かった。
ある者は号泣したり、またある者は静かに涙を流している。
そうだ。シラは……。
シラは竜神と向き合っているため、ナギたちからその表情を伺うことができない。
だがもう彼の肩は、笑いを堪えて震えてはいなかった。ちゃんと竜神と共鳴できたのだ。ホッと胸を撫で下ろす。
聞こえていた海の中の生命の音が、徐々に消えていく。
静寂が辺りを包んだ。
シラの足が地につき、彼が彼自身の力でそこに立つ。
「アル・カワールの守り神よ。私の心の深海は、そなたの海に相応しいだろうか」
「うむ。相応しい」
一言一言、心臓を震わせるような低い声だった。しかしこれは竜神の演技だ。ナギは知っている。本当の竜神の声は、これほど畏怖するような声ではない。もっと親しみやすく、優しいものだ。
事前の打ち合わせで、きっと王妃から頼まれたのだろう。
威厳ある声で喋ってくれ。
威厳ある感じで出てきてくれ。
きっと、そういう要求が出されたに違いない。
皆、竜神に騙されている。
そう思うと、少しおかしかった。
「汝の海の涙の花 に、竜の涙を与えよう」
竜神の瞳から、大きな雫が溢れた。
光り輝く雫は、ギュッと凝縮され、深い青色の石になる。
雫の形をしたその石は、最終的に、たった指の幅ほどの宝石になった。
「目を閉じよ」
言われた通り目を閉じたシラに近づいた宝石が、スッと、彼の腹の辺りに入っていく。
シラの体が一瞬、光り輝いた。
「そなたの花 は咲いた。そなたは紛れもなく、アル・カワールの王の末裔である」
しばらく呆然としていたシラだったが、ハッと我に返ったように跪いた。
「アル・カワールに祝福を」
辺り一帯を揺らすような歓声と共に、大量の花吹雪が舞った。
シラの戴涙色はこうして、無事に終わったのだった。
ともだちにシェアしよう!