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第1話 袖振り合うも他生の縁
しとしとと降り続く雨は、夏の始まりを告げる合図にしては随分と陰鬱に感じる。
新米文芸編集者である鷹場 椋 は、今月から新たに自身が担当することとなった作家との初めての顔合わせのため、駅から数十分ほど離れた作家の自宅へと向かっていた。
最寄駅に着いた時にはまだ小雨だったからタクシーなんて使う必要もないと思っていたのだが、梅雨の気温や湿度というものはなかなかどうして手強いもので。
帰りは絶対に今しがた通り過ぎたコンビニにでもタクシーを呼んで乗って帰ってしまおうと決意を固めた。
もう暫く歩いていれば着くだろうか。
地図アプリを開こうとした椋は、ふと視界に入った路地の向こう側に古びた鉄製の柵と、その先に広がる青い何かを見つけた。
近付かなくともその青の正体はすぐに見てとれる。
なんとも色鮮やかな紫陽花畑だ。
雨で落ち込んだ心が清涼感に包まれる錯覚に陥る。
作家との約束は15時で、今はまだ14時半。時間にはまだ余裕があるからと、椋は傘が閊える狭さの路地を通り、その紫陽花を眺めてみようかと近付いた。
外見に似合わないと昔からよく言われるが、こうした花を見るのは昔から好きだった。
父方の祖母が花屋を営んでいたということもあってか実家には色とりどりの花が年中飾ってあるし、花に関する知識こそないけれど世話をすることも多い。
それにしても、見事な紫陽花畑だ。ピンクや紫の花もあるのは知っているが、此処は全てが真っ青。
まるで海のようだ。
そう思いながら柵へと手をかけ覗き込む。此処は紫陽花園か何かだろうか。
「中に入って見ていかれますか?」
さぁ、と雨音しか聞こえなかった中で突然声をかけられたことで椋はびくりと肩を震わせてしまった。肩で支えるように差していたビニール傘の向こう、すぐ傍に人の姿を捉え、すぐにそちらへと体を向ける。
声でわかっていたが、黒い傘を差したそれは男だった。年齢は検討がつかないが、少なくとも自分よりは幾分か年上に感じる。
椋は小さく首を振ると、紫陽花へと視線を向けた。
「是非と言いたいところなんですが、見入ってしまっては用事に遅れてしまうかもしれないので。この紫陽花は貴方が?」
「ええ。気がついたら、こんなに増えてしまって」
本当は、此処まで増やすつもりはなかったんですが。そう呟くように男は真っ青な紫陽花畑を眺める。
紺色の長い髪は湿気のせいかしっとりと濡れ、日本人にしては珍しい翠眼が柔らかく弧を描く。
妖しく、綺麗だ。
真っ青な紫陽花も、彼も。
「とても素敵だと思います。そうだ、もしよければお聞きしたいことがあるんですが」
住所はきちんとメモをしてきたのだが、どうも最近スマートフォンかアプリの調子が悪いようで時折GPSがバグを起こしてしまう。
先程もまた調子が悪くなりコンビニの若い従業員に聞いてはみたのだが、新人だったのかこの辺りの住所も地図も頭に入っていないらしく、地名だけを見て半ば雑にこの近くですねと言われてしまっていた。
作家の苗字は本名だと聞いた。だから、ぐるぐると周りながら『佐倉』と書かれた表札を探していたのだが、見つからず。もしかするとあの従業員が住所を見間違えたか、メモをする時に間違えたのかと思い始めていた。
メモを濡らさないようにと男の傘の上に自らのビニール傘を被せるように近付き、手元の紙面を彼へと見せる。
男は小さくおや、と呟き椋を見上げた。
「新しい担当さんは若い子だと伺っていましたが、そうですか。君が」
「じゃあ、貴方が?」
「ええ、佐倉です。……打ち合わせまでまだ時間はありますが、見ていかれますか?」
「……はい、是非」
偶然目に留まった紫陽花を育てた人が、顔も知らなかった自分の担当作家。これも縁というものだろう。彼の言葉に甘え、椋は青一色の紫陽花を見せてもらうことにした。
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