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第2話 捨て物は拾い物

 佐倉(さくら)(こよみ)。年齢不詳の小説家。  少なくとも二十年前から執筆活動を行っているため、四十代半ばかと思われる。  ホラーだろうが官能だろうが、興が乗ればどんなジャンルでも書く悪食。ゴーストライターがいると囁かれることもあるが、真相は不明。  そんな情報しか先輩にもらっていなかったが、成程、年齢不詳。  確かに自分よりも少しだけ年上に見える彼が四十代には見えない。三十代、いや二十代後半でも通用する若々しさだ。  庭に入れてもらい紫陽花を鑑賞した後に通されたホールで、佐倉先生は柔らかいタオルを貸してくれ、温かい紅茶を淹れてくれた。 「お気遣い有難うございます」  濡れてしまった体を軽く拭き、高級そうなソファに座らせてもらいながらも逐一佐倉先生のことを見てしまう。椋の視線には気付いているようだが、彼は何も言わずに椅子に座り湯気の立つ紅茶に口をつけた。 「それで、打ち合わせについてなんですが」 「は、はい。今日はまずご挨拶をと思いまして」 「その前に。……実は私、もう新しいものを書くつもりはなくて。作家業は引退しようかと思っているんです」  まさか。椋は思わず手にしていたタブレットを膝の上に落としてしまった。  挨拶に来た場でまさか引退宣言をされるなんて。そもそも、先輩は引継ぎの時何も言っていなかった。新作を出し終えたタイミングで自分が産休に入るから、その後は宜しく頼むとだけ。  そんな、困る。椋の動揺が見てとれたのか、彼は困ったように笑った。 「前の方には言っていなかったので、驚かせてしまいましたね。でももう、数年間考えていたことなんです」 「理由を、お伺いしても……?」 「……一番最初に読んでくれる読者が、もういないので」  一番、最初。世に出る前、編集者に見せる前の段階での読者がいるのだろうか。  近しい仲の誰かだろうか。家族や恋人、そういった類の誰か?  椋が言葉に詰まっていると、佐倉先生は続けた。 「紫陽花なら、移り気でもずっと此処にいるのに」  窓の外の紫陽花を眺めながら呟くその言葉に、浮気でもされたのだろうかと思い至る。  恋人に読ませるために書いていて、恋人がいなくなったから、書く気がなくなった。  自分は日本全国にいる読者のために書いてもらうために此処に来たのだ。たった一人のために書いていた彼の創作意欲を掻き立たせることなんて自分にはできないが、書いてもらわないと仕事にならない。  何とか、書いてもらえないだろうか。  他人の人間関係に口なんて出すものじゃない。それも、取引先の大事な作家先生相手なら猶更。でも、恋愛ごとなんて仕事には関係のないこと。書いてもらわなければ自分をはじめとする先生の小説に携わる人の食い扶持が稼げなくなってしまう。  どう切り出せばいいのかわからないまま、口籠る。  何か言わねば。何か。 「……少し、昔話をしてもいいですか?」 「あ、ええ、はい。どうぞ」  椋がひたすらにどう切り出すかを考えていると、佐倉先生がそう聞いてきた。  ものの数秒で考えが煮詰まり始めていた椋は、すぐさまこくりと頷く。 「――あの人も、こんな雨の日にうちの前にいたんです」 * * *  その日は、今日と同じような雨の日だった。  佐倉は庭の紫陽花を手入れするため、傘を差し外に出た。  祖父から譲り受けた邸宅とこの庭は佐倉にとって大切な場所であり、どんな日であっても手入れは欠かさないようにしている。  色の調節をするために肥料もそれぞれ決めているし、剪定も欠かさない。  綺麗な花を咲かせるため、見て回るのも大事だ。  ふと、門の前に知らない男性が座り込んでいた。顔を見ようにも雨に濡れた髪は鼻まで隠し、目元を見ることができない。  自宅の前で倒れられても困る。もし酔っ払いか何かだったら退いてもらわなければ。 「もしもし、大丈夫ですか?」 「……雨宿り、させてもらえませんか」 「……軒下でいいなら」  今にも衰弱して倒れてしまいそうなざらついた声色に、思わずそう返事をしてしまう。  よく見れば傷だらけで、放っておくのは可哀想にも思えた。そう思ってしまったが故に口をついて出た言葉。  雨に濡れボロボロの男に肩を貸し、佐倉は彼を玄関先の軒の下まで連れて戻った。 「今、タオル持ってきますね」 「止んだらすぐに出るので、大丈夫です」 「そんな格好の人、放っておけませんから」  こんなボロボロになるまで傷ついているのだ。何か訳ありかもしれないとは気付いたものの、少しでも手を貸してしまったのだから最後まで面倒は見なければ。  祖父もよく言っていた。一度手を出したものは、必ず終わりまで見届けなければ。  佐倉は部屋に戻り大判のタオルを持ってくると男の頭に被せてやる。 「ほら、風邪ひきますよ」  言うなれば、雨に濡れた捨て猫を拾うような感覚に近い。  関わり合いになりたくない。そう思ったのも確かだが、放っておいてはいけない気もしてしまうのだ。 「……すみません」  でかい図体で、蚊の鳴くような声で謝るそれを見て、誰が放っておけるのか。  佐倉はふっと笑みをこぼしてしまいながら、濡れた髪を拭いてやった。 「雨が止んだら、すぐにお暇するので」 「じゃあ、それまで中で紅茶でも」 「見ず知らずの方に、そこまで世話になるわけには」 「今更でしょう。ほら、こちらに」  まさか油断した隙に金目のものを漁る強盗にも見えないし、自分の目の届く場所にいさせておけば危険なことなんてそうそうないだろう。  佐倉は男を家の中へと誘う。男は渋っていたようだが、佐倉が夕方まで予報では止まないと言っていたことを告げると観念したようで、唸るように頷いた。  それが、佐倉の人生を決定づけた『彼』との出会いだった。

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