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第3話 恋は思案の他

 客間に招き入れた男は、ずぶ濡れのままではいけないとソファに座ることは固辞した。  立ったまま動こうとしないそれに、佐倉は早々に諦めキッチンで湯を沸かしてくると一度席を立つ。  戻って来ても身動きひとつせず立っている様子に、これが押し込み強盗なのではなんて思う方が馬鹿げているなと笑みをこぼした。 「あ、の、……お名前は」 「佐倉です。佐倉暦。貴方は?」 「……(あつし)、です」  どうやら、苗字は教えてくれるつもりはないらしい。  それきりまた会話の糸口を探すためか黙りこくってしまった彼は、自身の髪からぽたりと水滴が床に落ちたのを目敏く見つけ、慌てたように髪をがしがしと乱雑に拭った。 「すみません」 「今更気にしませんよ。ほら、玄関から此処まで、貴方の足跡が水溜まりになってるから」 「……床、腐ったら弁償します」  ウォールナットの木材は腐りにくいから、そんな心配もいらない。  ただ、それを言うのは彼の気持ちを踏みにじる無粋な真似な気がして、何も言わなかった。  淳だけを立たせるのも気が引ける。だからと紅茶を淹れたカップを彼に手渡し、佐倉もまた同じように近くに立ったままカップを傾け、唇を縁につけた。  と、ふと思い出す。 「――嗚呼、そうだ」 「は、はい」 「少しだけ待っていてください」  救急箱、確かリビングの戸棚に入れていたはずだ。  痛々しい傷の手当てくらいなら、弱々しい手負いの獣の彼もきっと受け入れてくれるだろう。  * * *  ふぅ、と佐倉先生は紅茶を飲み干し一息吐いた。 「それから、雨が上がってあの人は帰って行きました。それきりでもう会うこともないだろうと思っていたのに、その翌日にはまた戻ってきて」 「……その、淳さんが一番最初の?」 「当時は小説家として活動もしていなかったので、唯一の」  そんな人がいなくなったのなら、筆を折ることを選択するのも無理はないかもしれない。  ただ、はいわかりましたと帰るわけにもいかず、椋は言葉に迷う。  勿論そんな椋の状況もわかっているのだろう、佐倉先生はふっと微笑んだ。 「私を説得したいのであれば、またいらしてください。明日でも、明後日でも」 「……そうすれば、また書いていただけるんでしょうか」 「どうでしょう。君の方が私に書かせることを止めるかもしれませんし」  そんなことは有り得ない。自分は、彼に書いてもらうために此処にいるのだから。  椋がどう説得するかを考えていると、佐倉先生は外を眺め、嗚呼と零した。 「雨、止んだみたいですね」  彼が身動ぎすることで、さらりと揺れ肩から垂れた髪の様子に視線を思わず奪われる。  淳という男は、移り気で消えてしまったのだろうか。  彼の、情夫だったのだろうか。  この、妖しく美しい彼を抱いたその腕で、他の誰かを抱くために消えたのか。  佐倉先生の、特別でありながら。 「……また、来ます」  意識が危うい方向に行きかけたことを振り払うように、自身の抱いた何やらいけない邪な考えを勘付かれないように椋は急いで荷物をまとめた。  佐倉先生は、何も言わないまま笑顔で眺めるだけ。  その視線さえ、全てを見透かすようで。  淳という男のことを語っていたときの、寂しさを纏わせた雰囲気なんて微塵も感じさせない彼の様子に、何も言われていないからこそ羞恥がこみ上げる。  自分は、今一体何を考えた。今日初めて会ったばかりの、取引先の、それも同性相手に。  一体、自分は何を。

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