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第2話

 それからときどき校内で彼を見かけるようになった。  彼は煌と同じ二年生だった。男子トイレや廊下の洗い場で、彼はいつもしきりに身体のどこかを洗っていた。  バイキン君。  それが彼のあだ名だった。  何度か彼が他の生徒たちから揶揄われているところを見かけた。  彼は学校でいつもひとりだった。彼と煌はいつもひとりという共通点があるだけで、その共通点は二人を繋ぐ線にはならなかった。  煌と彼という点と点が交差したのは、校庭に初霜が降りた十一月の初めだった。  彼と繁華街で会ってから二ヶ月ほどが経っていた。  ここ最近、彼はいつも屋外の水場で身体を洗っていた。体育館の横にあるその場所は、放課後に運動部が使うことが多いが、それ以外の時間はひっそりとしていた。  まだ朝の早い時間、制服を肘の上までめくり上げて洗う彼の手と鼻先は、凍えて赤くなっていた。 「寒くないのか?」  煌が声をかけると彼はそろりと顔を上げた。 「こっち来いよ、いいとこ教えてやる」  少し歩いて振り返ると、彼は同じ場所突っ立っていた。 「来いよ」  促すと、意外にも大人しくあとをついてきた。  夜の公園と朝の男子トイレで、二度逃げられた経験があるだけに、声をかけてもきっと無視されるだろうと心のどこかで思っていた。  煌は自分の足取りが、少しだけ弾んでいるような気がした。  旧用務員室の扉を開け中に入る。  扉のところで立ち止まった彼は「幽霊……」と小声で呟いた。 「いねぇよそんなもん、怖いのか?」  彼は小さくかぶりを振ると中に入ってきた。 「ここ、お湯が出んだよ」  蛇口を捻ると、煌は長椅子に腰かけた。湯気の立ち上り始めた湯に、彼は恐る恐る手を差し入れる。  小動物みたいだと思った。常に煌の挙動を窺っていて、ついて来たのはいいが全く信用されていないのが分かった。  別に取って食いやしないのに。  そう思った時、脳裏に路地裏で重なった二つの影と「やめて」と抵抗するか細い声が蘇り、煌は苦い唾をゴクリと呑み込んだ。  それから、彼は旧用務員室に身体を洗いに来るようになった。  それにともない、彼に一つだけ約束させたことがあった。  それは、旧用務員室を使っているところを誰にも知られないようにすることだった。煌の貴重な避難場所を失いたくなかった。  彼をここに招き入れることはその危険を冒すことでもあったが、彼と接点を持ちたがっている自分がいた。  こんな気持ちを誰かに抱くのは初めてだった。  手、腕、顔、首、そして時には足を、彼は一心不乱に洗う。  どうしてそんなに身体を洗うのか、煌は尋ねなかった。尋ねると彼はもう二度とここにやって来ないような気がした。  二人はほとんど会話をしなかった。  お互いに干渉し合わないのが暗黙のルールみたいになっていた。  そのため、煌は長椅子に寝そべりながら、彼が身体を洗うのを視界の端で盗み見ていた。無関心を装いながらも、煌の意識は彼に張りついて離れなかった。 「何も聞かないんだ」  ある日突然そう聞かれた時は、だから内心慌てた。 「何が」  ぶっきらぼうな返事が演技がかって見えてないか気になった。 「なんでこんなに洗うのか」 「綺麗好きなんだろ」  キョトンと目を丸くした顔が可愛いと思った。そして次にぷっと吹き出した彼の笑顔に心を奪われた。 「変なの、そんなこと言われたの初めて」  彼は蛇口を閉じると座り込んだ。 「幽霊って言われてるよ」  ここにいるのを誰にも見られていないつもりだったが、実際にはそうではなかった。目撃された煌の姿は自殺した生徒の幽霊に変換され、その結果、ここに近づく者はさらに少なくなったのだった。 「幽霊はいつもここで何してんの?」 「さぼり」 「幽霊もさぼるんだ」 「幽霊じゃない。……周防煌だ」  スオウ コウ。  ゆっくり反芻(はんすう)されるとなんだか気恥ずかしくなってくる。 「かっこいい名前だね」 「名前なんて言うんだ」 「ん」 「そっちの名前」  彼は長いまつ毛をそっと伏せた。 「バイキン……くん」 「そうじゃなくて本当の」 「本当だよ、僕汚いから」  汚いなんてあるもんか、こんなに、こんなに綺麗なのに。  その言葉を喉の奥で呑み込む。 「教えないと化けて出るぞ」    彼はまたキョトンとした顔をして、アハッと笑った。 「月城……玲衣」  ツキシロ レイ。  彼にふさわしい綺麗な名前だと思った。月城も綺麗だが、できれば「玲衣」と下の名前で呼びたいと思った。 「煌って呼んでもいい?」  首をかしげる玲衣の仕草が愛くるしかった。  初めて会ったとき、玲衣の手を握ったのが奇跡に思えるほど、玲衣は人から触れられるのを嫌がった。  けれど、玲衣の最初の暗く影のある印象は、話してみるとそうでもないことが分かった。  もし玲衣が抱えている問題がすべて取り除かれたら、玲衣はいったいどんなふうに軽やかに微笑むのだろうか。  きっと眩しすぎて煌は直視できないだろうし、神様に愛されすぎて、玲衣は煌の手の届かないどこか高いところに昇天してしまいそうだ。  けど玲衣はいた。  雑多な物で溢れる埃っぽい旧用務員室に、煌といた。

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