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第3話

 昼休み、廊下の水場で玲衣が数人の男子生徒に小突かれながら手を洗っていた。 「おいバイキン君、おまえ自分が汚いからいつもそうやって身体を洗ってるんだろ」 「洗っても綺麗になんてなんねぇよ」  玲衣は小突かれる度に、身体をビクつかせ、今にも泣きそうな顔で懸命に水の下で手を擦り合わせている。  そのうち一人が玲衣に向かってトイレ用の洗剤を吹きかけた。 「これつけて擦ったらちょっとは綺麗になるんじゃね。なぁ、誰かトイレブラシ持ってこいよ」  彼らは耳障りな笑い声を上げながら玲衣を小突いた。  煌の頭にカッと血が上った。  玲衣をいじめている生徒は煌よりずっと大きかった。    しかし、気づいた時には煌は彼らに突進していっていた。  身体は小さいが煌は喧嘩慣れしていた。だてに補導歴が星の数の煌じゃない。学校と家だけが世界の、普通の家庭の良い子ちゃんに煌が負けるはずがなかった。 「おまえらの汚ねえ手で玲衣に触んな!」  凄みのきいた声で怒鳴ると、次々と男子生徒たちを殴り飛ばしていった。  煌は唖然と立ち尽くしている玲衣の手を引っ張ろうとして、ためらった。  しかし、すぐに玲衣の制服の端を掴むと走った。    旧用務員室に駆け込み、ピシャリと扉を閉める。  両膝に手をついて肩で息をする玲衣から、煌はそっと手を離した。  煌の胸も弾んでいる。  やがて呼吸が落ち着くと、二人はその場に座り込んだ。しばらくの間、二人とも何もしゃべらなかった。 「あれ……本当だよ」  ポツリと玲衣はつぶやいた。 「僕、汚いんだ」 「そんなことあるもんか!」  思わず声を荒らげてしまう。  玲衣が汚いなんてことあるものか。玲衣は綺麗だ、誰よりも。  さっき彼らに言った言葉は煌の本心だった。  綺麗な玲衣に薄汚い人間が触れてはいけない。  そしてそれは煌も例外ではなかった。  あのとき、咄嗟に玲衣の制服を掴んだのは、玲衣が人から触れられるのを嫌がるだけではなく、自分の汚れた手で玲衣を触ってはいけないと思ったのだ。 「煌は綺麗だから……」 「は? 俺のどこがだよ、綺麗なのは」  玲衣だろ。  心の中では何百回も思った言葉を口にするのは恥ずかしかった。それにその言葉は、本来は女の子に使うものだ。 「清潔って意味で」 「だからそれもどこがだよ」  そして二人はまた黙った。  昼休みの終わりを知らせるチャイムが聞こえてきた。けれど玲衣は座ったまま動こうとしなかった。 「あの時、見たでしょ」 「何が」  ぶっきらぼうな聞き方になった。 「あの夜、僕が……変だよね……あんなの」 「だからなんのこと言って」  玲衣の仄暗い上目遣いが、夜の路地裏を煌の脳裏に呼び起こした。  口の中に苦い唾が広がる。 「気づいてたのか、俺があの時の……」 「僕が、悪いんだって。だからあんなことされても仕方ないんだって」 「なんだよ、それ、つかあいつ誰だよ」 「誰かにしゃべった? あの時のこと」 「言うわけねえだろ」 「そか……で、どう思った?」 「何が」 「だから、その」 「別になんにも思いやしねぇよ」  嘘だった。  けど、そう言うしかなかった。  玲衣に聞きたいことはたくさんあった。けど聞くのが怖かった。 「煌は優しいね、それにすごく強いし、さっきもびっくりした。かっこいいよ煌は」  玲衣にかっこいいと言われて頬が熱くなった。  壁にもたれ、投げ出された二人の足は玲衣の方が長い。  大きくなりたいと思った。  小さくても戦えるが、背も肩幅も手も玲衣より大きくなって、玲衣を守ってあげたい、そう思った。  玲衣と出会った秋はやがて白い冬に衣替えし、そして春が訪れた。  二人は進級して三年生になった。  クラス替えはあったが、玲衣と煌は同じクラスにはならなかった。クラスが変わっても、玲衣は旧用務員室に足繁く通ってきた。  玲衣は相変わらず身体のどこかを懸命に洗い、煌は横目でそれを眺めて過ごした。  会話をする時もあったし、しない時もあった。したとしても数学教師の今日の髪型は変だとか、どうでもいいような内容のものが多かった。  煌は、玲衣の事情にこちらから踏み込んではいけないような気がした。  きっとそれは玲衣が身体を洗うことと関係している。みだりに知ろうとすると、せっかく近づいた玲衣との距離がまた離れてしまいそうだった。  それだけは絶対に避けたかった。  だから玲衣が実は御曹司だと知ったのは、玲衣と知り合ってから半年以上も経ってからだった。  二人が住む町には、南北を分ける一本の川が流れていた。川の北側には裕福な人々の邸宅が立ち並び、南側は生活に困窮する人々の家が密集していた。  煌の住む公営団地は南側の外れにあり、玲衣の家は北側にあった。  玲衣は国会議員の息子だった。歳の離れた兄がいて、家にはワインセラーやサンルームがあるという。  玲衣が私立の中学に行かなかったのは、子どもの頃から身体があまり丈夫ではなく、電車で片道一時間以上かかる名門校より、徒歩で通える区内の公立中学の方が良いだろうと医者に言われたからだった。 「けど僕のお母さんは再婚だから、本当のお父さんと兄さんじゃないんだ」 「でも御曹司は御曹司だ」  玲衣はファストフードというものを食べたことがなかった。 「まじでモスのバーガー食ったことねぇの? マックもバーガーキングもフレッシュネスも? どこの店も旨いけど、俺はやっぱりモスが一番好きなんだ。えっ? コンビニアイスも食ったことねぇのか? あんなうまいもんを? まじかよ」  学校給食を除いては、無添加のオーガニック食材で調理した食事しか食べさせてもらえないという玲衣に、煌は心底同情した。 「よし、じゃあ今日これからモスに連れて行ってやる」   と、意気込んだものの、煌の財布には八十円しか入っていなかった。  それに玲衣は、今日はこれから家に家庭教師が来るという。 「モスのバーガー食べたい、コンビニアイスも」  祈るように胸の前で指を絡ませる玲衣が可愛くて、そして煌の目には不憫に映った。  明日は土曜で学校は休みだった。  正午に駅前のモスで待ち合わせることにした。  玲衣と学校の外で会うのは初めてで、なんだかちょっとデートみたいだと喜んだ自分が、煌は恥ずかしかった。  玲衣は男なのに、こんなふうに喜ぶ自分は変だとも思った。

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