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第4話
家に帰ると父がまだ明るいうちから酒を飲んでいた。
カーテンも開けず、部屋の空気は澱んでいて酒臭い。
家の中はいつも足の踏み場もないほど散らかっていた。もともと駄目人間だったが、母がいなくなってからさらに駄目になった。
いっそのこともう早く死んでくれないかと思う。
「よぅ、煌、おまえも一杯飲まねぇか」
「いらねぇ」
煌がまだ小学生だった頃、無理やり酒を飲まされたことがあった。父は嫌がる煌を押さえつけ、母はそれを見て笑っていた。
「なんだよ、なんか楽しそうじゃねぇかよ」
いつの間にか背後に父が揺れながら立っていた。
「俺は楽しくねぇのに、なんだよおまえだけ」
いきなり殴られた。
父は体躯のいい大柄な男だった。酒漬けの身体でも仕事で重いものを運ぶせいもあって、腕っぷしは強かった。
同じ中学生には負けない煌だったが、父親の前では身体がすくんだ。幼い頃から暴力を振るわれ、恐怖を植えつけられたというのもある。
「おまえがそんなふうにしてるとイライラするんだよぉ、あ? おまえのせいで俺の人生は何もかもめちゃくちゃなんだよぉ」
父と母はいわゆるデキ婚だった。
ことあるごとに、煌は父から「ガキができるなんてヘマしなけりゃ、結婚しなかった」「おまえがいなかったらもっと好きなことができた」などと言われて育ってきた。
それは母も同じだった。
だったら堕ろせばよかったのに、煌だってこんなどうしようもない親だと分かっていたら生まれてこなかったのに、そう思った。
両親の人生をめちゃくちゃにした自分は楽しんではいけないのか? 幸せになってはいけないのか?
誰も求めず、誰からも求められることのない人生。
それだけじゃ足りないのか? 自分はいったいなんのために生まれてきたのだ?
いつになくひどく酔っている父は、煌を容赦なく殴りつけた。
明日、玲衣と会うので顔は殴られたくなかった。痣ができるのだったら服に隠れるところがいい。
煌はそんなことを思いながら、父親に殴られ続けた。
モスバーガーの窓に映る自分の顔を、煌は何度も確認する。
耳の横あたりがうっすら青紫色の痣になっていた。玲衣のように、洒落た長めの髪だったらなんとか痣を隠せただろうが、煌の頭はいつもバリカンを使って自分で刈った丸刈りだった。
玲衣にだけはこんなみっともない顔を見られたくなかった。かといって今日の約束を反故にするのは論外だった。玲衣に聞かれたらどんな言い訳をしようか。
結局いい言い訳を思いつかないまま、約束の時間になった。
約束の時間になっても玲衣は現れなかった。
二時間待った。もしかして時間と場所を間違えたのだろうか?
電話があれば連絡することもできるのだろうが、煌はスマホを持っていなかった。
店から漂ってくる油の匂いでさっきから腹が鳴って仕方ない。
何か大事な用事でもできて来られなくなったのだろうか。
玲衣が自分との約束を簡単にすっぽかすようには思えなかった。
しかし、今日のことを玲衣は煌ほど楽しみにしていたわけじゃなかったように思えて、気持ちが沈んだ。
それでも、モスのバーガーを食べてみたいと言った時の玲衣の顔が忘れられず、煌はハンバーガーを二つ買うと歩き出した。
玲衣の家がどこなのかは知っていた。川の北側で一番敷地の広い大きな家だ。
煌の住む公営団地の壁が、元の色が分からないほど色褪せているのに比べ、玲衣の家の壁はいつでも真っ白だった。
橋を渡ろうとした時、向こうから一台の車がやって来た。周りの景色を映すほどよく磨かれた高級車だった。
助手席に、玲衣が乗っていた。
「玲衣!」
思わず叫んだが、窓が閉められた車内に煌の声は届かなかったようで、玲衣はチラリともこちらを見なかった。
それ以前に、玲衣の目はどこも見ていないように見えた。
気分でも悪いのか、座席に身体を深く沈め、虚ろな目をしていた。
玲衣と初めて会った夜と同じ、全てを諦めたような目だった。
煌と目が合ったのは、運転手の方だった。
あの、男だった。
半年以上経った今でも鮮明に覚えている。路地裏の暗がりで、玲衣に覆い被さっていた、情欲にまみれた赤い目をした、あの男だった。
男と目が合ったのはほんの一瞬だった。煌の目が男に釘付けになったのに対し、男の目はすぐに煌から離れた。
男にとって煌は路上の障害物でしかなかった。
胸糞悪くなったのは、車が走り去った後の排出ガスを吸ったからだけではない。
あの夜には感じなかった、男への猛烈な嫌悪感に襲われた。
嫌がる玲衣の身体に触れていたあの男に、焼けるような憎しみを覚えた。
自分は玲衣にとってただの友達であってそれ以上の何者でもないのに、沸き上がる激しい怒りを鎮めることができなかった。
怒りは男だけではなく玲衣にも向けられた。
なんでそいつとまた一緒にいるんだよ! そいつのこと嫌なんじゃないのかよ! 俺といるよりそいつといる方がいいのかよ!
紙袋の中の二つのハンバーガーが忌々しく思えた。
その場でヤケクソになって二つとも食べた。無添加で、オーガニックの気取った料理より一千倍美味しいと自慢したハンバーガーは、全然美味しくなかった。
何もかもが頭にきて、ゴミを橋の上から川に投げ捨てた。思いっきり投げた割には、丸めた紙屑は川風に煽られながらのんびり落ちていき、気分がスッキリするどころか余計モヤモヤした。
月曜日、煌は旧用務員室には行かなかった。
土曜日の怒りの火種がまだ燻っていた。
昼休みに入ってすぐ、煌のクラスに玲衣はやって来た。教室の入り口でうろうろしている玲衣に、煌は気づかないふりをした。そのうちクラスの男子のひとりが玲衣に近寄って行った。
サッカー部のイケメンで、性格も優しいと女子から絶大の人気のある男子だった。
玲衣より頭一つ分高い彼を玲衣が見上げ、穏やかな眼差しで玲衣を見おろす彼。男同士でも華やかで絵になるバランスのいい二人だった。
煌と玲衣ではこうはならない。その彼の大きな手が、玲衣の肩に伸びようとしていた。
「触んな!」
気づくと叫んでいた。
勢いよく椅子から立ちがったために、椅子が後ろに倒れて派手な音をたてた。
水を打ったように教室が静まり返り、その場にいる全員が煌に注目していた。みんながびっくりしている中で、玲衣だけが嬉しそうに煌を見ていた。
煌が二人の間を引き裂くように割って外に飛び出すと、玲衣はそのまま煌の後をついてきた。
「ついてくんなよ」
「煌、昨日はごめん」
ごめん、ごめんと何度も謝る玲衣を無視してずんずん歩いた。
自分でも子どもっぽい行動を取っていると思った。けど、むしゃくしゃして玲衣に当らずにおられなかった。
旧用務員室に入るとピシャリと玲衣の鼻先で扉を閉めた。
しばらくしてソロソロと扉が開き、玲衣が部屋に入ってきた。三角座りしている煌の横に並んで玲衣も座る。
「なんで昨日来なかったんだよ」
「ごめん……」
「理由を聞いてんだよ、昨日何してたんだよ」
「急に具合が悪くなって……煌に連絡したかったんだけど、煌はスマホ持ってないから」
確かに昨日見た玲衣は顔色が悪かった。具合が悪くなったというのは本当なのかも知れない。そう思うと空気の抜けた風船のように怒りが萎んできた。
しかし、今度は黒いしこりが存在感を増した。
「あの男……、誰だよ。俺、昨日見たんだよ、玲衣が繁華街で一緒にいた男と車に乗ってるの」
約束をすっぽかされて傷ついたのは煌の方なのに、玲衣は今にも泣きそうな顔をした。
「言いたく……ない」
玲衣は膝に顔をうずめた。
それを見た瞬間、煌は我に返った。
怒りの火種は完全に消えた。
自身のことを汚いと言った玲衣。玲衣が問題を抱えているのは分かっていたのに、玲衣があの男を嫌がっているのは知っていたはずなのに、自分はなんと子どもじみた理由で、玲衣に八つ当たりをしてしまったのだろうか。
自分で自分を殴りたい。
「玲衣……」
玲衣に伸ばした手を握った。触れたいけど触れてはいけない。もどかしかった。
「また今度、食べにいこ」
玲衣はそろりと顔を上げた。
「もう怒ってない?」
小声で「怒ってないよ」と答えた。
怒っていた恥ずかしい自分を銀河の彼方へ放り投げたかった。
それから二人でたわいもない話をした。
伸ばした足を見て玲衣は言った。
「煌の足は大きいね、きっとこれからもっと背が伸びるよ」
そう言われると、玲衣の方が背は高いのに、足は煌の方が大きかった。
「サッカー部のあいつくらいになるかな」
「彼よりも全然大きくなるよ。僕が最初に煌に会った時から煌はずいぶん大きくなったよ。成長痛とかない?」
そう言われると、最近寝ている時に足が痛いことがある。心なしか玲衣との目線も前より近くなった気がする。
身体だけではなく、心も早く大人になりたい。
今日みたいに玲衣を困らせるようなことは二度としない。
煌は密かにそう自分に誓った。
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