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第8話

 義兄は低く喘ぎながら、いつものセリフを吐いた。 「おまえが悪いんだからな、おまえがこんなだからいけないんだ」  玲衣の頭が逃げないよう掴むと、激しく腰を打ちつけてくる。玲衣は人形のように心を空っぽにして、ただ時間が過ぎるのを待った。  おまえがこんなだからいけない。  空洞と化した玲衣の内側に、その言葉がカラン、コロンと落ちてきた。  ひとりっきりの旧用務員室。待っても待っても煌は来ない。  玲衣の頬に涙が伝った。  義兄は玲衣の顔を引き剥がすと、背中を突き飛ばすようにして後ろを向かせた。固い窄まりに中途半端に勃起したそれを押し付け、数回擦っただけで果てた。内腿にとろりとした生温かいものが垂れる。  やっと終わったと、玲衣が腰を下ろそうとすると、まだだと制された。内腿を伝うものを指ですくい、窄まりに塗りつけられる。  蠢く指先が気持ち悪くて、玲衣は顔をしかめた。冷たく固いものがあてがわれ、驚いた玲衣は振り返った。  義兄が手にしていたのは、男性器を模った生々しい張形だった。  恐怖より先に身体が逃げた。 「おとなしく尻を出せ」 「無理、そんなの入らない」  ベッドの上で揉み合いになる。うつ伏せに押さえつけられ、無理やりに足を開かされる。窄まりが圧迫され、ギリギリと固い頭が捩じ込んでこようとする。  玲衣は言葉にならない声を上げながら、手足をバタつかせた。  玲衣の指先が、固く冷たいものに触れた。それはサイドテーブルの上に置かれたハサミだった。何も考えられなかった、玲衣はハサミを掴むと、義兄の太ももに突き立てた。  義兄は獣のような叫び声を上げ、ベッドから転げ落ちた。太ももを押さえてのたうち回る義兄を横目に、玲衣は服をかき集め身につける。  ボタンをかける指先が震えていた。  頭の中は真っ白で、そんな中、玲衣はすがるように二つの文字を心の中で唱えていた。  煌、煌!  それは、まるで夜道の先に光る道標(みちしるべ)のようだった。吸い寄せられるようにして、玲衣は〝煌〟に向かって歩き出した。  北と南、富と貧、それらに境界線を引いたように流れる川。  そして、その隔てられた二つの間に渡された橋。  その橋の上でその夜、二人は再会した。  揺れるように向こうから歩いてくる人影は、今にも消えてしまいそうに儚かった。  それが玲衣だと分かった時、喜びより不安が勝った。なぜなら、玲衣の白い頬が血で汚れていたからだ。 「玲衣、怪我をしたのか!?」  煌が駆け寄ると、玲衣は幻を見るかのような目をして煌を見た。  煌、煌、と口ずさみながら、その大きな瞳が震えている。 「僕……刺した、ハサミで……義兄(にい)さんを、だって……やだったんだ……怖く…て」  何が起きたのか、だいたいの想像はついた。  衝撃だった。まさか玲衣を苦しめている相手が、玲衣の肉親だったとは。 「煌……僕のこといやだよね……あんな写真……見せられて、汚い……だから僕、これ以上汚くなりたくなくて……煌にこれ以上、嫌われたくなくて」  玲衣の瞳に涙の膜が張る。こんな時でさえ見惚れてしまうほど、玲衣の瞳はガラス玉のように綺麗だった。 「汚くなんてあるものか。玲衣はこんなに綺麗なのに」 「でも……もう、僕のこといやだよね」 「いやじゃない。いやなはずあるもんか」  玲衣を抱きしめたかった。強く、腕が痛くなるくらい強く、玲衣を抱きしめたかった。  それができないことがもどかしかった。  その時、ドンと玲衣がぶつかってきた。  煌は最初、玲衣がこちらに倒れてきたのだと思った。 「煌」  しかし、玲衣の手が煌の背中にしっかりと回されているのに気づき、抱きつかれているのだと分かった。  あの玲衣が、他人に少し触れただけで身体をビクつかせる玲衣が、決して自分から人に触れたりしなかった玲衣が。  煌は自分の手の平を見つめた。  この手で玲衣を抱きしめてもいいのか? それが許されるのか?  そう思った時には、玲衣を抱きしめていた。  抱き潰してしまうのではないかと思うほど強く、強く玲衣を抱きしめていた。  腕の中の玲衣は細くて、以前より小さくなった気がした。しかし、それは自分が大きくなったからだとすぐに気づいた。  いつの間にか、煌は玲衣とそれほど変わらない背丈になっていた。  橋の向こうから、車のヘッドライトが近づいてくるのが見えた。煌は玲衣を抱きしめたまま車に背を向けた。  車が二人の前で止まるのではないかと緊張した。しかし、車はそのまま走り去って行った。 「玲衣、とりあえずどこかに移動しよう」  玲衣と離れるのが少しだけ残念だった。もっとずっと玲衣と抱き合っていたかった。しかし、のんびりはしていられない。  ここからすぐに移動できて、人目につかない所。  煌はすばやく頭を巡らせた。  橋の下の群生した葦が視界に入った。大人でもすっぽり隠れるほど背が高く、隠れるのに絶好の場所に思えた。  橋の照明灯が薄ぼんやりと辺りを照らしていた。  川の方から水音が聞こえてくる。  二人は葦の中に分け入ると、並んで座った。そこら中で虫が鳴いている。  玲衣はポツリ、ポツリと自分のことを語り出した。  玲衣の母親が再婚したのは、玲衣が小学校に上がる前で、義兄は玲衣より十歳年上なこと。その義兄は身体と心に問題があって、玲衣が八歳の時に初めて義兄から性的な悪戯をされたこと。母も義父も、なんとなく気づいているのに見て見ぬ振りをしていること。  途中、玲衣は何度も言葉を詰まらせて、額を立てた膝に押し付けた。  無理して話さなくていいよと言うと、煌に聞いて欲しいと首を横に振った。  そうして玲衣は自分の話を終えると、今度は煌の話が聞きたいと言った。 「俺さ、今夜親父を一升瓶でぶん殴ったんだ。もしかしたら死んだかもしんない」  煌は子どもの頃から父親に殴られて育ったことや、自分勝手な母親が煌を置いて家を出て行ってしまったことを、玲衣に話した。  補導歴は両手では足りず、初めて玲衣と会ったあの夜も、補導員に見つからないよう路地裏に隠れようとしていたのだと告げた。 「親父に玲衣からもらったスマホ取られて、ずっと連絡できなかった。ごめん」 「そうだったの!? だったらそう言ってくれればよかったのに」 「格好悪くてそんなこと、玲衣に言えねぇよ」  煌が玲衣の写真を見たのはほんのさっきで、二人はお互いに思い違いをしていたことが分かった。 「僕、てっきり煌に嫌われたんだと思ってた」 「俺の方こそ」  二人は笑い合った。玲衣はハサミで義兄を、煌は一升瓶で父親を傷つけ逃走中という緊迫した状況なのに、ほっこりと胸が温まるようだった。 「あ、そうだ、今スマホ持っているんだよね、ちょっと貸してくれる?」  貸すもなにも、もともと玲衣のものなのだ。煌はポケットからスマホを取り出すと、玲衣に渡した。 「念のためG P Sは切っておこう」 「G P Sって何?」  現在位置が特定できる機能だと、玲衣は説明してくれた。 「これからどうしよう……」  玲衣が水音だけが聞こえてくる川の方を見ながら呟いた。  二人の行く末は、目の前に広がる闇と同じように思えた。  玲衣の義父は今回も事を表沙汰にはしないだろうと、玲衣は言った。玲衣は連れ戻され、以前と同じ生活を強いられる。しかも義兄の行為はだんだんひどくなっているように思えた。  煌の場合、もし父親が死んだら、煌は少年院行きだった。生きていたら、生きていたで、煌にとっては今までと同じ生き地獄のような毎日が待っているだけだ。 「早く大人になりてぇ」  これまで何度も思ってきたことだが、今日ほどそう強く思ったことはなかった。 「大人になったらどうしたい?」 「家を出てひとりで生きていく」  大人になること。  煌にとってそれは、そのまま自由を意味していた。成人すれば親の保護下から解放され、自分の意思でなんでもできる。 「いいね。僕も大人になったら家を出たい」  それから、二人は長いこと黙って川の流れる水音と虫の鳴き声を聞いていた。  言葉を交わさなくても、互いの考えが伝わってくるようだった。  明け方、気温がぐっと下がり、寒さで二人は身を寄せ合った。 「海が見たいな……」  うっすらと白んでくる東の空を見ながら、玲衣がポツリとつぶやいた。  まるでそれが合図かのように、二人は顔を見合わせた。 「行こうか、海を見に」 「うん」  ここから川を十キロほど下ると、海に出られた。  二人は川沿いを夜明けに向かって歩いた。  希望の象徴のような朝日が照らすのは、暗澹(あんたん)とした二人の現実だった。二人の味方は誰もいなかった。光で包まれていく世界でさえも、二人に背を向けているように感じた。  それでも少しも怖くはなかった。なぜなら、  この手をしっかりと握ってくれる君がいるから。  初めて誰かを求め、そして求められた。  それはこの上もない喜びだった。  そしてそれは二人を強くした。  これからどんな困難が待ち受けていようとも、この手が自分に繋がれている限り、何も恐れるものはない。

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