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第9話

 二時間ほど歩いて海に出た。    決して美しいとは言えない海だったが、その壮大さに感動した。  玲衣は波打ち際に駆け寄り、まるで初めて海を見る子どものようにはしゃいだ。煌もすぐに玲衣に続いた。  波を追いかけ波に追いかけられ、水をかけ合い、砂浜に何かおもしろいものが落ちていないか探して歩いた。打ち上げられたクラゲを棒で突き、小さなカニを追いかけた。  そうしているうちに太陽は空の高いところに上り、いつの間にか、最初にいた場所からずいぶん離れたところまで歩いてきていた。  砂浜に体育座りをして海を眺めた。水平線を数隻の船がゆっくりと進んでいく。潮風が耳元ではためく。  海を見飽きると二人の興味は空に移る。もくもくとした入道雲を指差しながら、あの雲はパンみたいに見えるとか、そんなたわいもない話で盛り上がる。 「あれはクリームパン」 「カレーパンじゃね?」 「……お腹空いたね」  玲衣が小さくため息をついた。  煌は服のポケットにあちこち手を突っ込むと、ズボンの後ろポケットからブラックサンダーを、シャツのポケットから飴玉を取り出した。ブラックサンダーのチョコは半分溶けかかり、煌の尻に押しつぶされて変形していた。 「手品みたいだ」  喜ぶ玲衣にあげると、玲衣は飴玉を口に含み、ブラックサンダーは半分にして残りは返してきた。 「全部食べていいのに」 「ひとりで食べても美味しくないし。本当は飴も半分にできたらいいんだけど、僕が舐めたのを後から舐める?」  玲衣はペロリと舌を出した。半透明の飴を乗せた薄いピンク色の舌が妙に艶かしくて、煌は俯いた。 「冗談」そう言って笑う玲衣に、早やる心臓の音が聞こえやしまいかと身体を丸めた。  その日、二人は水平線に太陽が落ちていくまでずっと海を眺めて過ごした。  夕日が落ちて海風が涼しくなってくると、二人は風を避けられる場所に移動した。夏といっても明け方は気温が下がる。それを今朝、二人は身をもって経験していた。  煌がどこからか拾ってきた段ボールで身体を覆うと、想像以上に暖かかった。 「明日、俺もっと段ボール集めてくるからさ、それで家作ろうよ」 「家ってホームレスが作ってるシェルターみたいなやつ?」 「いや?」 「ううん、秘密基地みたいで面白そう」  明日。  明日の夜まで玲衣と一緒にいられるだろうか。煌はまだしも、玲衣の家族は今頃玲衣を探しているに違いない。もう警察に届けたかもしれない。 「義父はすぐに警察には届けないと思う。とにかく世間体を気にする人だから。それに年間の行方不明者数知ってる? 八万人弱なんだって。事件性がなければ警察はたいしたことはしてくれないよ」  まるで煌の頭の中を読んだかのように、玲衣は言った。  煌は玲衣と会う前まで、河の北側に住む人たちはみんな幸せなのだと思っていた。大きな家に住み、何不自由ない暮らしをし、悩みなんて一つもなさそうに見えた。  しかし、それらは玲衣の言う〝世間体〟のために取り繕われたものだったのかもしれない。 「俺の親父は世間体なんて知ったこっちゃないって感じで、今回だって生きてたとしても、警察なんかに届けないと思う。俺の親父と玲衣の親父は全然違うけど、子どもがいなくなっても警察に届けないってとこは同じだな」  玲衣の母親だって、保身のために玲衣を義兄に差し出したようなものだ。煌の母親よりたちが悪いとも言える。  河の北側に住む人たちがみんな玲衣の家族みたいだとは言わないが、生まれ育った環境や社会的地位が違っても、蓋を開けてみれば人はしょせん同じだということだ。  そして何よりも、南で生まれ育った煌と北の玲衣の心がこんなにも近く寄り添っていられることが、全てを物語っていた。  朝日が眩しくて目が覚めると、すぐ横にいたはずの煌がいなかった。  辺りを見回すが浜にもどこにもその姿はない。あるのは青い海とそれを映したような青い空、そこに浮かぶ真っ白な入道雲。  焦りと不安がすごい勢いで胸の内側に広がる。 「煌? 煌!?」  するとすぐそばの岩陰から煌が顔を出した。 「玲衣、起きたんだ、おはよう。実は玲衣が寝てる間にさ、なんとなんと」  煌は手に白いビニール袋を持っていて、中から食パンとコーラのボトルを取り出した。 「朝食をゲット!」  玲衣は煌に飛びついた。煌の手からボトルが砂の上に落ちる。 「玲衣? そんなに腹が減ってたのか?」 「おいてかれたかと思った、僕、見捨てられたかと思った」  煌は眉を八の字に下げ、玲衣の背中を優しくポンポンと叩いた。 「俺が玲衣をおいて、ひとりでどこかに行くはずないだろ」  それでも玲衣はしばらく煌にしがみついたままだった。 「なぁ」と煌はずっと気になっていることを聞いてみた。 「その、もういいの? 玲衣って人に触れられるの嫌がってただろ、もう大丈夫なのかなって思って」  玲衣は煌の胸に顔を押し付けたまま、くぐもった声で答えた。 「大丈夫、他の人は分かんないけど、煌は大丈夫」  そうして煌に回した手に力を込めた。 「そか」と煌は返し、できればこの先ずっと玲衣に触れられるのは自分だけがいいな、などと思ったりした。  二人で食パンとコーラを半分ずつ食べた。コーラは落としてしまったせいか、開けるとすごい勢いで吹きこぼれて、飲む前から1/3ほど減ってしまった。 「これ、買うお金どうしたの?」  煌は自動販売機の下に落ちていたコインを集めたと答えた。子どもの頃からよくやっていたことだった。玲衣が尊敬の眼差しで煌を見つめてくるので、照れくさかった。  パンを食べ終えると、玲衣が自分もコイン集めをやってみたいと言い出したので、午後はずっと二人で地面に這いつくばってコインを探した。  玲衣は効率よく自販機を探すためにスマホを使った。ただし、この時だけはG P Sをオンにしないといけなかったので、見たら大体の場所を確認してすぐにスマホを閉じた。  玲衣の暗記力の良さに煌は驚いた。それに、スマホでそんなことができるなんて全然知らなかった。自分ひとりだったら無駄に自販機を探して歩き回るだけのところだった。それを玲衣に言うと、 「けど僕は自販機の下にコインが落ちてるなんて知らなかったから、煌がいなかったらパンにはありつけなかったよ」  と、頬に土埃をつけたまま玲衣は笑った。  御曹司の玲衣にこんなことをさせるのは忍びない気もしたが、当の本人は嬉々として、綺麗な顔が汚れるのもかまわず、自販機の下を覗いて回っていた。

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