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第24話

 部屋の扉が閉まる音と同時に、玲衣は目を開けた。空っぽの隣に手を這わせる。  まだ煌の温もりが残っていて、身体の重みで段ボールがわずかに押し潰されている。  しばらくすると、庭から水音が聞こえてきた。窓に歩み寄ると、煌が井戸で顔を洗っているのが見えた。  ひと夏で、煌はずいぶん逞しくなった。去年の秋、出会ったばかりの煌の面影を、今の身体つきから探すのが難しいほどだ。  ヒリヒリ赤くなるだけで白いままの自分と違って、煌の肌はすっかり小麦色だ。その肌の下の筋肉もまた自分にはない厚さで、同い年なのに煌と自分の身体は全然違う。  煌は全く自覚がないようだが、浜辺や町で女の子たちが煌に熱い視線を送ってくるのを何度も目にした。彼女らは隣にいる玲衣に気づくと、敵意の混じった視線を送ってくる。  その目が、〝なぜお前みたいのが彼の横にいるのだ〟と言っているようで、玲衣は身がすくんだ。  煌にふさわしいのは、煌と同じように健康的に日に焼けた男の子か、そうでなければ彼女らのような女の子なのだ。  そのどちらでもない自分は煌にふさわしくない。今は煌のその意思の強そうな瞳は自分に向けられているが、いずれその目が他へ向く日がやってくる。  ふと、昔母に言われた言葉を思い出した。 『今だけだから』  あの時は、その〝今〟が辛くて、一刻も早く〝今〟じゃなくなってくれることを願った。  けれど今はその〝今〟が永遠に続けばいいと思っている。  ずっと煌と二人きり。このまま時間が止まればいいのに。煌がずっと自分だけを見てくれたらいいのに。  玲衣は自分の唇にそっと触れた。 「煌……」  唇に触れた手を握りしめる。  自分は汚い。身体だけじゃなくて、心の中まで汚くなってしまった。何も知らない煌を汚してはいけない。  ダメだよ。  あの言葉は自分自身に向けた言葉でもあった。これ以上、大事な煌を引きずり込んではいけないのに。堕ちるのは自分ひとりで十分なのに。  分かっているのに煌を手放せない。  煌を誰にも渡したくない。  ゆっくりと、湖の底を漂うように心地よい眠りをまどろんでいると、美しい旋律がまばゆい光と共に降ってきた。  目を開けると、隣で寝ていたはずの玲衣の姿はなく、窓から燦々(さんさん)と太陽の光が差し込んでいた。  聞こえてくる旋律をたどって階下に降りると、居間で玲衣がピアノを弾いていた。 「あ、起こしちゃった?」 「止めないで、もっと弾いてくれよ」  白い指が再び動き始める。玲衣は煌も知っている有名な曲を数曲弾いてくれた。  ピアニストみたいだと煌が盛大な拍手を贈ると、玲衣は「これぐらい、ピアノ習ってる人だったら誰でも弾けるよ」と照れた。 「それでもすごい、だって俺はぜんぜん弾けない」 「煌にも弾ける曲あるよ」 「えっ、マジで?」 「うん、ここ座って」  長椅子に二人で腰かける。 「手はね、こんなふうにして」  玲衣の手が、煌の手に触れる。それだけで心臓が跳ねた。細くて白い玲衣の指とごつごつした煌の手は対照的だった。  玲衣は指一本で弾ける曲や、手をグーにして黒鍵の上を転がすだけの曲を、煌に教えてくれた。その中でも一番気に入ったのは、煌の単純なメロディーに合わせて玲衣が複雑な伴奏をしてくれる連弾というものだった。  何回も同じ曲を繰り返し弾いた。何回弾いても飽きなかった。  陽だまりの中で戯れているような、優しい時間だった。  ピアノの音よりも大音量で二人のお腹が鳴ったところで、お開きとなった。  スーパーでまたパスタと、今度はケチャップを買って、具なしナポリタンを大量に作って食べた。  それから浜辺に行ってマテ貝を探したが、この浜にはマテ貝はいなかった。  代わりに浜大根という野生の大根が生えていたのでそれを採った。浜大根は生では辛かったが、火を通すと美味しくなって、パスタに大量に投入した。

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