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第8話

 重い瞼を薄っすらと持ち上げると、すっかり日は沈んでしまったのか辺りは暗くなっていた。 「………あれ……?」  一瞬、ここが何処か分からなくて困惑する。  でも素晴らしく滑らかなシーツの触り心地と、初めて体験したフカフカなベッドに、ここが留学中お世話になる予定のナイト公爵邸だと思い出した。 「いったい何が…………」  のそりと起き上がって軽く頭を振ると、僕はそっと独り言た。  ズキズキと痛む頭を宥めつつ記憶を辿ると、ふとレグラス様の声が蘇る。 『君の魔力を貰うぞ』 『魔力を貰う』って何だろう?  魔力って大気に含まれていて、呼吸をするだけで体内に蓄積されていくものだ。人から貰い受けるものじゃない。  使える魔力は、その人が持つ魔力の貯蔵庫の役割を果たす魔管の多きさで決まる。攻撃や治癒なんかの特殊魔法を使わなくても、魔力を必要とする魔道具や生活魔法を使っていれば減るから満タンになることは殆どない。そして減った分は、時間と共に自然に回復するものだ……。  僕はそっと自分の胸に掌を当ててみた。  魔管って目に見えない不思議な器官で、それは胸……肺とか心臓にあるんじゃないかって言われてる。  だって大気に含まれるのを、呼吸で取り込んでるからね。  意識して自分の魔力を探ってみると、確かにゴッソリと魔力が減っていた。 「減ってる……」  じゃあ、やっぱりレグラス様は僕の魔力を奪ったの?  ーーでも、それは何故? 「…………」  胸に当てていた手を唇へと移動させる。  あの時、彼は躊躇なく唇にキスをした。  人族であるレグラス様が、獣人の僕に……。  魔力は呼吸で魔管に溜め込むものなら、奪う時も呼吸からなんだろうか?  どんな理由で魔力を奪ったのかは分からないけど、『獣臭い野蛮な獣人』にああも迷いなく唇を重ねる事ができるものなの? 「もしかして、アステル王国で言われているほど、獣人は嫌われていない?」  ラジェス帝国に行ったあと、誰一人として戻ってこなかった留学生たち。  もしかしたら……。本当に本当に、可能性としては低いかもしれないけど、こっちの方が暮らしやすくて祖国に戻らなかったのかもしれない。 「……もしかしたら僕も一人の人間として、普通に生きていける…………?」  ギュッと上掛けを握りしめて呟く。  幸せになりたい、なんて大層な事は望まない。  ただ普通に。一人の人間として、普通に生きていきたい。  ーーでも………。 「もしかしたら、レグラス様が変わってる人って可能性もあるよね」  ふるふると頭を振る。過剰な期待は持たないようになきゃ……。  そう思った時、天蓋カーテン越しにボソっと呟き声が聞こえた。 「変わってるとは心外だな」  反射的に尻尾がしびびびびっ! っと毛を逆立てながらぴん! と立った。情けないけど、耳も頭に沿ってピタッと寝かせた状態になって、外側に向かって張ってしまう。  恐る恐る声がした方に視線を流すと、薄いカーテン越しにうっすらと人影が見えた。その影はゆったりとした仕草でカーテンを捲ると、僅かに顔を傾けて中を覗き込んできた。  声から予想はしてたけど、やっぱり………。 「ナイト公爵、様…………」  見えた顔は、彫刻のように整いすぎた美貌の持ち主であるレグラス様だった。  流石に不敬に当たる発言をした自覚はある。だから、これ以上失礼にならないように、礼儀に則って家名+爵位呼びで敬意を表してみたけど………遅いよね?  名前を呼んだ瞬間、彼の片眉がピクリと僅かに動いた。  あああ……聞かれてるとは思わなくて、変わった人呼ばわりしてしまった。不敬罪で処罰を受けるのかな……。  ムチ打ちくらいで済めばいいけど、祖国への強制返還とかだったらどうしょう……。  オロオロしていると、レグラス様がすっと手を伸ばしてきた。  ーー叩かれる!  ギュッと目を瞑り身を縮めていると、大きな手がぽんと頭に乗せられた。 「…………?」  な……何をしているんだろう?  乗せられた手はゆったりと動き出し、ナデナデと頭を優しく撫で始めていた。  そろりと目を開けて彼を上目遣いに見ると、真顔でひたすら撫でている。『慈しむように撫でる』って行為と、表情らしい表情のない顔の落差が激しい。  そのシュールな光景に思わずじっと凝視していると、視線に気付いた彼と目が合った。  ぴたっと手の動きが止まる。 「…………気分はどうだ?」 「だ……大丈夫です」  怒ってるって感じはしない。  僕はほっと息をつくと、動きを止めた手からそろりと身体を離す。  その様子を黙って見ていたレグラス様は、自分の掌に視線を落とし、もう一度僕を見た。 「撫でられるのは嫌か?」 「え? ええっと………、いいえ、嫌じゃ……ないデス」  しどろもどろに答えると、レグラス様は小さく頷きベッドサイドに腰を下ろした。  長い脚が組まれるのを見るとはなしに見ていると、伸ばされた指に顎を軽く掴まれて、クイっと持ち上げられた。  視線が絡まり、綺麗なアイスブルーの瞳に僕が映り込む。 「では、私が恐ろしいと思うか?」 「……………………」  どんな答えを求められてるんだろ?  どう答えていいのか分からなくて、思考をぐるぐる空回りさせていると、レグラス様は言葉を重ねて問うてきた。 「私はさっき君の魔力を奪った。そんな力を持つ私が怖くはないか?」  淡々とした声には、自分を卑下する響きも露悪的な響きもない。  ただ僕がどう思っているのかを確認しているだけ。そんな雰囲気だった。  だから僕はレグラス様の瞳をじっと見つめたまま、暫く考えてみた。そして徐ろに口を開く。 「よく分かりません。だって、お会いしてまだ一日も経ってないし、どういった方なのか全く知りませんから……。でも………」 「ーーでも?」 「でも、僕の頭を撫でてくれたの、今まで生きてきて貴方だけです。撫でて貰えるのがこんなに気持ち良いって、初めて知りました。だから怖いかどうかって判断はできないけど、撫でてくれるこの手は……好きです。……………たぶん」  考え考えゆっくり紡ぐ言葉を、レグラス様は目を細めてじっと聞いていた。  そして僕の言葉が終わる頃、何故か僅かに口角を持ち上げて、柔らかな空気を身に纏っていた。 「そうか……………」  短い言葉だったけど、ちょっとだけ嬉しそうな響きを含んでたように感じる。 「そうか」  もう一度呟くと、頭のナデナデを再開させた。  何がそんなに嬉しかったんだろ? 「あの………?」 「君が好きなら沢山撫でよう。だから君も二度と私の呼び方を間違えてはダメだ」 「え? 間違え………?」 「私は『レグラス』だ。そう呼べと言っただろう?」  レグラス様の表情が動く。「あれ?」と見つめ続けていると、人間離れしたその美貌にはっきりと笑みを浮かべ、顔を傾けて僕の頬にチュッとキスをしてきたんだ。 「!!!!?」  本日三回目のキスに目を白黒させていると、レグラス様は更に笑みを深めてみせた。  どういう反応を返していいか分からなくて盛大に狼狽えていると、薄っすらと向こう側に見える扉がガチャっと開く音がした。 「閣下、猫ちゃんは目を醒ましたのでしょうか…………って、あれ?」  ノックもなしに入ってきた人影は、一歩脚を踏み入れた後ピタリと動きを止める。 「何ですか? このムダに甘酸っぱいような、むず痒くで背中を掻きむしりたくなるような、このビミョーな雰囲気は?」  訝しげに問う声に、レグラス様が短く短く返事をした。 「ーーダレン。キサマ、殺すぞ」  目付きも鋭く冷ややかな雰囲気のレグラス様は、今日一番怖かった。

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