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第1話 男を買い損ねて見知らぬ男を拾った件

1 男を買い損ねて見知らぬ男を拾った件    色白な肌が熱のせいで薄紅色に染まっている。胸に二か所の桜色。上半身で最も敏感な場所だろう。何やら妙に色っぽい裸身である。  苦し気に上下する胸に聴診器を当てようとして、若者がぼんやり目を開けたのに気がつく。そうして見るとまだ少年のようでもある。 「具合は?」と言いかけた口が止まってしまう。  まるで花が開いたようだった。にわかに少年が微笑んだのだ。 「ああ……」と嬉し気な声が漏れた口元には白い歯が覗く。片頬には愛らしくも、えくぼがある。まるで赤ん坊のような無邪気な笑顔。  見惚れているうちに少年は両手を伸ばして首っ玉に抱きついて来た。ふふふと息のような笑い声を洩らしている。この上もなく楽しそうである。 胸に引き寄せられそうになって、 「いや、君。診察を……」  と腕を外した時には、病人はまた遠い眼差しになった。そして再び寝息をたて始める。 ほんの一瞬の儚い目覚め。こちらを恋人と勘違いしたのだろう。  華奢なくせに筋肉質な肉体である。運動で鍛えているのだろう。今時の若者には珍しく五分刈りなのも、スポーツ選手だからに違いない。  それにしても冬場にふさわしくない衣類である。上半身は半袖Tシャツにパーカーだけだし、チノパンも薄手の生地である。いや膝が擦り切れているから経年劣化した故の薄手だろう。  この格好で真夜中の駅のベンチに寝ていたのだ。発熱するのも当然だ。  改めて聴診器で心音を聴く。体温計で熱を測ってから、額に手を当ててみる。 五分刈りの髪が掌にちくちく当たる。別に触りたかったわけではない。原始的ではあるが触診は医療診断の基本である。  まあ、触りたくなかったわけでもないが。  今宵、喬木直己(たかぎなおみ)は新宿二丁目で男を買って服を脱がせる予定だった。  なのに何故こうも健全に患者の服を脱がせて診察しているのか。  二丁目で男を買い損ねて、地元の駅で見知らぬ男を拾ったのだ。  JR真柴駅(ましばえき)を降りてなだらかな坂道を上って行くと喬木医院(たかぎいいん)がある。祖父の代から続く小さな医院である。  直己はそこの三代目院長である。正式には外科医院だが、町医者ゆえに内科、小児科、皮膚科など初診は何でもありなのだ。  祖父が院長の頃は真柴地区で医者といえばここだけだった。当時は医師や看護婦が数人いて入院加療も行っていた。  近隣の小中学校の健康診断も一手に請け負っていた。地域医療に貢献したと祖父や父は叙勲を受けたこともある。  だが今や医師は直己一人でパート看護婦の助けを借りて外来診療を行っているだけである。 隣町の本城駅前(ほんじょうえきまえ)に大きな総合病院が出来たせいでもあるし、少子化の影響もあろう。 いずれにせよ直己は暇を持て余すこともあり、アルバイトに出かけるようになっていた。  毎週火曜と木曜の午後、新宿セントテレジア総合病院の外科に診察に出かけるのである。  その帰りに新宿二丁目に寄るのはここ数年の倣いである。酒を飲むこともあれば男を買うこともある。  勘弁して欲しい。(よわい)三十四。田舎で母親と二人暮らしの隠れ同性愛者である。  都会に出た時ぐらい自由にさせて欲しい。恋人もなく、一人の処理は飽き飽きしている。  だが今夜は何の厄日だったのか。 「ヤッホ~! ランディだよ~!」  ホテルで待ち受けている直己の前に現れたのは、黒髪の写真とは似ても似つかぬトマト頭の若者だった。  髪を真っ赤に染めているくせに頭頂部だけ緑色なのだ。耳にはいくつもピアスを付けていた。だが驚いたのはそこではない。 「あれ、喬木先生でしょう? 校医の」  と言い当てられたのだ。 「瀬戸内(せとうち)ランディ……真柴中学校の?」  ベッドで寛いでいた直己はあたふたと起き上がり、とっとと荷物をまとめた。 「先生ってば。中学はもう卒業したよ」 「じゃあ、今は高校生?」 「高校生じゃないよ。大丈夫。もう成人してる」 「嘘つけ。君のお母さんは今三十四才だ。十六才で君を産んだから……」 「何で知ってんの?」 「私の同級生だ。同じ真柴中学校の」 「へえ~。偶然!」  そんな偶然よりこっちの偶然に驚け。  瀬戸内ランディの母親は、直人の同級生の中で一番初めに出産したのだ。だからよく覚えている。 「つまり君はまだ十八才。未成年者だ」  買うに事欠いて未成年者はあり得ない。  チッチッチッと人差し指を立てて振るランディである。 「先生、古い~。今は十八才成人です~。エッチだって出来ます~」 「どっちにしてもあり得ない!」  直己はランディに指一本触れることなく早々にホテルを出るとファミリーレストランで夕飯を食べさせた。  中学校の集団検診は体育館に集められ裸にされた生徒たちを流れ作業で診て行く。 だが〝瀬戸内乱出伊〟という物凄い氏名に手が止まったものである。 瀬戸が内乱でい?  いや〝瀬戸内ランディ〟だった。どういう親がこんな名前をつけるのだと考えるまでもなく見当がついた。  十六才で出産した同級生のヤンキー娘が〝瀬戸内信出伊〟シンディだった。もちろん純粋な日本人である。できちゃった婚をしたが出戻って来たはずだ。  その息子が今やウリセンをする年になっている。などとしみじみしている場合ではない。 「大丈夫~。僕、二丁目で喬木先生に買われたなんて言わないよ~」  まだ買ってない!  などという言い訳は通用すまい。露見すればおそらく大変な騒ぎである。 「でも喬木先生がゲイなんて。知らなかった~。だ~か~ら~大丈夫! 絶対に言わない!」 「…………」  ほとんど何も言えずにランディが食べたがる物を与えてただ話を聞いて来た。  もちろん時間を拘束しただけの金は払った。  ちなみにランディの本業はダンサーだそうである。ウリセンに励んでいるのはニューヨークにダンス修行に行くためと、それなりに若者らしい夢を聞かされたのだった。  そして終電に乗って帰って来た真柴駅で、熱を出した見知らぬ男を拾ったわけだ。    真柴本城市(ましばほんじょうし)は山梨県とよく間違われるが都下である。  もともと真柴村と本城村だったのが合併して真柴本城市になった。  本城町では名前が真柴町の後になったことを恨み、真柴町では急行が本城町だけに止まることを恨み……という他所の人々にはどうでもいい確執があったりする。  新宿からの電車の終点が本城駅である。東京最後の駅である。次の駅は山梨県になる。  真柴駅は本城駅の一つ手前である。急行電車は止まらない。真柴駅で降りるには各駅停車に乗るしかない。  各駅停車の終電車を降りて直己は思わず襟元を合わせた。  都心よりかなり気温が低い。ホームの桜はまだ蕾である。新宿では日なたの桜はもう咲いていたのに。  改札口を出ると駅舎のベンチに五分刈りの若者が寝ていた。  以前にも見かけたことがある。よく電車を乗り過ごしてここまで来てしまうらしい。  もし最終の各駅停車を乗り過ごしたなら、真柴駅では降りずに隣の終点、本城駅まで行ってしまった方がいい。実は本城駅始発、最終の上り急行で新宿まで戻れるのだ。  そんな裏ワザを教えたこともある。 「ありがとうございました!」  と単なる裏ワザに最敬礼する若者だった。  殊更な礼儀正しや粗末な衣服で大きなザックを背負っているところから、刑務所帰りではないか? などと無責任な噂もあった。

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