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第2話 男を買い損ねて見知らぬ男を拾った件

喬木(たかぎ)先生。このお客さん、具合が悪いんじゃないかねえ?」  ベンチの傍らにいる加藤(かとう)駅長は同級生である。 「この人いつもうちの駅で寝てるじゃないか。迷惑な。本城駅まで行けばいいのに」  と言うのは、この町にただ一人の警察官、日野(ひの)巡査である。こちらは直己と同じ中学出身だが十年程後輩である。 「駅舎は鍵かけるんだよね。外のベンチに寝かせちゃまずいかなあ?」  と加藤駅長。 「熱がある人を交番には泊められないよ。何かあったら困るから」  と日野巡査。  警官と駅長の二人に見つめられて、この町唯一の医者である直己は、 「いいよ。この人はうちで寝かせるから」  と言わざるを得なかった。  人口が少ない田舎町では人間関係の色濃さは都心の町とはまるで異なる。  この医師も駅長も警官もそれぞれに親も住まいも学歴も、それこそ履歴書に書くようなことを当然の如く知っているのだ。  直己は仕方なく若者を背負って徒歩五分の喬木医院に向かう。日野巡査が若者のザックを持ってついて来てくれた。 「いやだわ。急患なら病室に寝てもらえばいいじゃない」  自宅の玄関先に出て来た母は眉を顰めた。珍しく着物姿である。 「すいませんね。荷物置いてきますんで、よろしく先輩」  日野巡査はザックを玄関の式台に置いてそそくさと帰って行った。 「病室なんて倉庫になってるだろう。座敷に布団を敷いてよ」 「いやあよ。お座敷は明日のお茶会の準備が出来ているのよ」  なるほど色留袖は明日のお茶会用に試着していたのか。  直己の母は師範の免状こそとらなかったが(高価過ぎると不満を洩らしていた)趣味で知り合いに茶道を教えている。  暇な主婦達の遊びである。それが明日ということは、また直人も駆り出されるわけか。 「じゃあ、応接室でいいでしょう」  とため息まじりに言ってみる。 「ええ?応接室だって明日の控室に……」 「お母さん。倉庫みたいな病室に寝かせて患者が悪化したら喬木医院の名折れですよ」  母はこういった言葉に弱いのだ。不満そうな顔は変えずに応接室に布団を敷きに行った。  喬木医院など別にそれ程の旧家でも名医でもないのに。  真柴本城市には天平時代に建立された国分寺があり、その頃からこの地に住んでいる貴族の末裔がいる、との噂である(誰かは知らない)。  明治時代に移り住んだ喬木家など新参者である。  だが喬木家の長女である母はこの医院に誇りと愛着を持っている。  父は入り婿なのである。祖父の大学の後輩とのことだった。  祖父も父も亡くなって跡を継いだ直己は実は次男坊である。長男は既に家を出て大学病院に勤めている。この時点で喬木医院の歴史も何もありはしない。    応接室のソファやテーブルを片隅に寄せて、床に敷いた布団に男を寝かせて診察を始めたのだ。念のためにコロナやインフルエンザの検査もしたが陰性だった。単なる風邪だろう。注射を一本打つ。  濡れタオルで汗をかいた身体を拭いてやり、客用の真新しいパジャマを着せてやる。パジャマのボタンをかけ、ズボンを履かせてやりながらまた複雑な思いに捕らわれるのだった。  新宿二丁目で瀬戸内ランディにゲイばれした。欲求不満は解消されなかったし。  何ならこの若者と、そういう仲になっても構わない。助けたお礼にここはひとつ……などと不埒な考えが頭を過る。  診察室で白衣を着ている時には思いもよらない邪念である。  欲求不満のなれの果てだ。  ぶるんと強く頭を振って、直己もパジャマに着替えた。  お歳暮お中元など贈答品の箱が無暗に積まれ、古い玩具や段ボール箱などがごちゃごちゃ押し込まれた応接室である。  見知らぬ男の隣に自分の布団を敷いたらアップライトピアノの下に潜り込んで寝る羽目になった。熱に浮かされているだろう男のやや早めの呼吸音を聞きながら眠りに落ちた。 「恐れ入ります。申し訳ございません」  肩を軽く揺すられて目が覚めた。  夜明け前のほの暗い部屋に人影が見える。隣の布団に正座して手を突いた若者が直己の顔を覗き込んでいるのだった。 「お手洗いを拝借したいのですが」 「あ……は、お手洗い。ここを出て右に行ってすぐの扉です」 「恐れ入ります」  と若者は立ち上がって応接室を出て行った。  何だ今のは?  擦り切れたチノパンや薄汚れたパーカーを着ていた若者の言葉遣いとも思えない。  いや、それよりあの見事な正座とお辞儀は何なのだ。  母のお茶会で見かけるご婦人方のどてっとした丸まっちい正座とは比ぶべくもない見事な姿だった。    気がつくと戻って来るのが遅い。  扉を開けて応接室を出ると、若者は廊下の床に頬を当てて寝ていた。 「床が冷たくて気持ちいい……」  と、うっとりしている。  まだ熱が下がりきっていないようだ。直己は男の腕を取って応接室に戻った。ちょうど直己の肩に顎が来る背丈である。 「お名前は? 何と呼べばいいですか」 「松吉(まつきち)です」 「松……」  まあ、ランディよりは遥かに日本人の名前である。  改めて松吉の額に濡れタオルを乗せて、水を飲ませて寝かせる。  真っ赤だった顔は薄紅色になったせいか、妖艶さよりも健康的な色気が感じられる。  熱に潤んだ瞳は黒々と大きかったが、目を閉じた今は長い睫毛が肌に際立つばかりである。  五分刈の髪を伸ばせば、もっと容貌が引き立つのに……。  直己は眠る松吉をしばらく見つめていた。

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