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第3話 日本人離れした名前が跋扈する件

2 日本人離れした名前が跋扈(ばっこ)する件 「喬木先輩。夕べの男はどうしましたか?」  翌朝、診察が始まる前に日野巡査がやって来た。  喬木医院は自宅と医院が一間ほどの渡り廊下で結ばれており、それぞれ別の駐車場と玄関がある。巡査は医院の駐車場に自転車を停め、慣れた様子で診察室に入って来た。  直己はちょうど松吉の問診をしている時だった。  まだだるそうに診察台に腰かけていた松吉は、警官の姿を見るなり立ち上がった。 「いいから。松吉さんは座っていなさい」  と制して巡査に言う。 「もう熱は下がったので、少し休ませてから帰らせますよ」 「そうですか」  と帽子を脱ぎながらも、日野は問診を聞いている。  直己は机に向かって紙のカルテに記入している。今や大半の医師は電子カルテを使っている(バイト先の病院でも)が、喬木医院ではもはやそんな物を導入する予定もない。 「名前は、何松吉さんですか?」 「音羽亭松吉(おとわていまつきち)ですが……」 「音羽亭……歌舞伎役者さんですか?」 「いえ。落語家の前座です」 「落語家の前座?」 「ええと。つまり修行中で。一番下っ端で。虫けらです。人権ありません」  落語家というのは話すのが生業(なりわい)ではないのか?  風邪で声が掠れているにしても小さ過ぎる声で訥々と話す松吉である。  向いてない職業を選んだなと勝手に判断する。 「落語家って言えば……先輩。今年の桜まつりは町内会で落語家を呼ぶんでしょう?」  と巡査が口を出す。 「ああ、商工会議所が何か言ってたな……いや、もう大丈夫ですよ、日野巡査」  ちょうど出勤してきた看護師に目配せして、警官を診察室から追い出す。 「そんじゃ。ありがとうございました先輩」  と警官は帰って行った。 「ええと。松吉さんというのは芸名かな?」 「はい。本名は松橋礼司(まつはしれいじ)です」 「松橋礼司さんね。年齢は?」 「二十三才です」  よかった。未成年ではない。  いや、何を安堵しているのだ? ただ診察をしただけだ。いかがわしい行為はしていない。 「先生。清川(きよかわ)のお婆ちゃんがお見えですが」  警官を見送った安田(やすだ)看護師が顔を出した。  直己は松吉に抗生物質などの薬を出して、自宅で母親が用意した朝食を摂るように命じた。 「後で駅まで送っていくから。それまでまた応接室で寝てなさい」  診察室からアコーディオンカーテンで遮られている控室に向かう痩せた背中に、 「お名前は松橋さんと呼べばいいのかな。それとも……」 「松吉とお呼びください」  振り向いて、松吉である松橋礼司はそう言った。  喬木医院に毎朝訪れる患者ベストスリー。  清川(きよかわ)婆様、豊川(とよかわ)婆様、山川(やまかわ)爺様。  それぞれ年相応に神経痛だの高血圧だの痛風だの患ってはいるが、毎日診察しなければならない程の重症ではない。  単に日課として毎日やって来ては、血圧や体温を測り、おしゃべりをして帰って行く。時には診察室には入らずに待合室だけで帰ることさえある。  かなり小柄な清川婆様は新聞紙の包みを持って診察室に入って来た。 「裏庭で採ったふきのとうと、それで作った蕗味噌だに。前の先生も若先生も好きだったら」 「ああ。ありがとうございます」  父の代から使っているアナログ式血圧計のカフを婆様の腕に巻きポンプでシュコシュコ圧をかける。 「はえ、じき千代川(ちよがわ)土手の桜まつりだねえ。この時期になると兄さんを思い出すに」 「海軍に行かれた一番上のお兄さんですね」 「水兵さんだでねえ。白いセーラー服がそらあ素敵だったに」 「なるほどねえ。はい。血圧も体温も正常値です」  などという会話をするのが直己の主な仕事である。 「先生。豊川のお婆ちゃんがお見えです」  安田看護師が告げると同時に、今度は小太りの婆様が診察室に入って来た。 「おはようございます。おや、清川さんもう来てたんだね」 「はえ、豊川さんの分も持って来たに。ふきのとうと蕗味噌。待合室に置いてあるで」  と清川婆様は勝手に診察室を出て行き、豊川婆様も勝手に直己の前に座って腕を出す。  直己は自動的にその太目な腕にカフを巻き血圧を測る。  これで山川爺様がやって来れば、オールスターキャストである。  正午に午前中の診察を終えて白衣を脱ぐと、一間の渡り廊下を渡って自宅に戻る。  真っ先に応接室を覗いたが、布団はきちんと畳まれて松吉の姿はなかった。 「直己さん。昼休みなんでしょう。ほらほら、早く来てちょうだい」  座敷から顔を出した色留袖の母に呼ばれる。  座敷を覗くと、毎度お馴染み四人の主婦達がそれぞれ着物姿で正座している。  その末席に松吉も正座している。 「ちょっと、お母さん。風邪の患者さんにお茶なんか……」 「あら。もう熱が下がったし、ご飯も普通に食べたからいいでしょう」 「いえ、先生。私がやってみたいとお願いしたんです」  と言う松吉が着ているのは若草色のトレーナーだった。  母が与えたのだろう。何かの記念品で貰ったらしいカエルのキャラクター付きの物である。  あか抜けないデザインにも関わらず妙に似合っているのが可笑しい。  そしてその正座姿は他の主婦達とは圧倒的な違いがあった。まるで天から糸でぴんと吊られいるように背筋が伸びた見事な姿だった。 「直己さんも、松吉さんの隣に座ってちょうだい」  と母に言われるままに正座する。  床の間には木瓜の花らしき絵の掛け軸がかかっている。その前の風炉には茶釜が設えられ、振り袖姿の若い女性が座っている。 「こちら本城町の牧田(まきた)産婦人科クリニックのお嬢様よ。薬剤師さんなんですって」 「…………」  直人は黙ってお辞儀をした。  齢三十四独身開業医母親と二人暮らし。三十路過ぎても医者ならば縁談はまだやって来る。真性同性愛者の直己としては煩わしい限りである。  直己は女性とセックスしたことがない。おそらく出来ないだろう。交際経験ならあるが、中高生の頃である。 「まだ早いよ。僕たち学生だし……」  などとセックスを拒める年齢だった。  従ってキスやペッティング止まり。女性の柔らかい身体に興奮を覚えたことは一度もなかった。正直言って診察以外では触りたくない。  喬木直己はそこそこスペックはいいから、女性からの告白も途切れることなくあった。全て断らずに受け入れた結果、二股三股のプレイボーイと浮名を流すに到った。  まさかそれが全て清い交際だとは誰も思っていないだろう。相手以外は。  大学に入ってからは、学業を理由に女性の告白は全て退けた。事実、医学部の勉強について行くのに必死だった。  そして、性的欲求は性風俗、ウリセンで解消することを覚えた。ごく稀にナンパに応じることもあったが。  昨夜ランディと会うまで直己のウリセン遍歴は続いたわけである。有体に言えば、素人童貞だった。 「失礼します、先生。山川のお爺ちゃんがお見えです。今日は少し具合が悪いそうで」  襖を開けて安田看護師が顔を出した。  牧田産婦人科クリニック令嬢のお点前で抹茶を飲んでいた直己は茶碗を置いた。この場を逃げる絶好の機会だった。 「今、行きます」  と立ち上がりかけて前につんのめって両手をついてしまう。  正座で足が痺れて感覚が無くなっている。  慌てて立ち上がろうとした直己の腕を、 「立たない!」  と松吉が強く掴んだ。  初めて張りのある声を聞いた。 「足が痺れて感覚のない時は無理に立っちゃいけません。変に歩くと足首の骨を折ることがあります」 「まさか……」と直己は笑いかけたが松吉は真剣な表情である。 「入門したばかりの落語家は必ず注意されます。感覚が戻るまでじっとしていてください」  直己は気圧されて四つん這いになったままでいる。  松吉もその腕をじっと掴んだままである。 「いやだわ。直己さんたら、そんな恰好でみっともない。早くお行きなさいな」  母が言った。 「みっともなくても、先生のおみ足の方が大切です」  松吉が返す言葉には不思議な圧があった。決して大声ではないのに。  一瞬その場が静まり返り、茶釜で湯が沸く音だけが微かに響いた。  直己は妙に感動して松吉の顔を見た。  すらりと口にされた〝おみ足〟という言葉にも感動している。  松吉は怒ったような顔で目をそらすと、 「診察も大事ですけど……」  と直己から手を離した。何とか足の感覚が戻って来たので、 「大丈夫だよ。ありがとう」  と松吉の肩に手を掛けて立ち上がった。  そして茶釜の前の女性に軽く会釈して座敷を出た。  山川の爺様は痛風持ちだった。常より痛みが酷いとのことで嫁に支えられるようにやって来た。  処方箋を出し、本城市の総合病院で精密検査をするよう紹介状を書いて帰した。  そして改めて自宅に戻ると、松吉は既に帰った後だった。

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