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第4話 日本人離れした名前が跋扈する件
喬木医院の玄関は二つある。
医院から真柴駅に向かう人には「玄関を出て左側にまっすぐ」と道順を教える。
自宅からだと「玄関を出て右側に行ってから左に曲がる」と教える。
わざわざそこまで解説するほど複雑な道ではないのだが。
「あそこを歩いているのは、さっきの正座の方じゃありませんか?」
助手席に座った牧田産婦人科クリニック令嬢が、田園風景の先を指さした。
母や主婦達に促され、直己は令嬢を車で本城駅まで送ることになった。ちなみに喬木医院の車は単なる国産車である。
田畑の中にまっすぐ走る道。車窓に見えるのはスーツの店、中古本屋、ドラッグストアなどの大型店舗ばかりである。
そこを頼りない風情の松吉が大きなザックを背負って歩いている。しかも手には犬の紐を握っている。紐の先にいるのは雑種のむく犬である。
「どうしたんですか?」
松吉に追いついて尋ねると、
「この犬が一人で歩いてて……」
「それは、そば屋の飼い犬ペロです。時々逃げるんです。放っときゃ自分で家に帰りますよ」
「でも、大きな車が通ってて危ないし。とりあえず私のしごきで結んで」
「しごき?」
「腰紐。着物の」
直己にはよくわからないが、ペロの首輪に結んであるのは着物の紐らしい。松吉は車の傍らに立ち止まったままである。
「いいから乗ってください。ペロも一緒に。後でそば屋に届けますから」
「ありがとうございます」
と嬉しそうに犬と共に後部座席に乗る松吉である。
「どうしてこんな所を歩いてらしたんですか。ずっと前に家を出られたのに?」
尋ねたのは令嬢だった。
「教えられた通りに玄関を出て左にずっと歩いて来たんですけど、ちっとも駅がなくて」
「いや。それは医院の玄関から出た場合だ。君は家の玄関から出たろう?」
「はい……」
バックミラーで見る松吉は半分涙目である。
家からここまで小一時間は歩いているはずである。病み上がりだというのに。
途中で変だと思って引き返さなかったのか。そう尋ねると、
「先生のお母様が教えてくださったからこの道で正しいんだろうと思って」
「勘違いして案内したようだな。すまなかった」
「私は気がついたら喬木医院に寝ていたし。駅までどれぐらいの距離か知らなくて。田舎の駅は遠いんだなあと……」
もはや松吉は完全に涙を浮かべてうつ向いている。
笑いたいところを堪えて直己は、
「悪かったね。私が勝手に連れて来たんだから、送るべきだったね」
と謝った。
すると松吉は拳を目に当てて震え始めた。声は殺しているが完全に泣いている。
「私……私は、方向音痴なんです。いつも道を間違えて。仕事に遅れて……しくじってばかりです」
犬のペロまでが悲しそうにキュンキュン鳴き出した。
今度こそ直己はくすくす笑い出してしまった。同じく笑いながら、
「何も泣かなくたって」
とティッシュを差し出したのは牧田産婦人科クリニック令嬢。名前はエステルとかいった。
純粋なる日本人なのに名前は牧田エステル。日本人離れした名前が跋扈 する世の中である。
本城駅前の牧田産婦人科クリニックで振袖のエステル嬢を下した。
「あの子、寝てますよ」
降り際に言われて背後を見ると、松吉はまた眠っていた。足元ではペロも眠っている。
車を降りて令嬢が家に入るのを見送ってから、後部座席の松吉の額に手を当ててみるとまた熱を出していた。
本城駅には行かずに真柴に戻り、そば屋和助に寄った。道の遠くからでも見える支柱の上に「そば屋和助」と大きな看板がある。
「ペロがまた逃げてましたよ。ちゃんと繋いどいてくださいよ」
店の裏の犬小屋にペロを繋ぐのも慣れたものである。勝手口の中に声をかけると、長靴履きの和助が顔を出した。
「先生。今年の桜まつりに来てくださいよ。落語家を呼ぶから。店に座布団たくさんあるし」
千代川土手桜まつりは毎年何かしら趣向があるが、今年は和助が町内会長になって初めてなので張り切っているのだ。
「それと、このところ血圧が高いんだよね。何か薬ないかなあ?」
「診察に来てください。調べて処方箋を出すから」
「往診鞄に薬あるんでしょう。ちょっとだけ出してよ。お金は払うからさ」
車に往診鞄が積んであるのは事実だが、医師が薬を出すことは出来ない。医師法の定めにより、診察して処方箋を出すのみである。
和助は直己の中学の二年先輩だから、何かと横柄にものを言う。ひたすら断り車に戻った。
車内では松吉が赤い顔で苦し気に寝ていた。熱がかなり上がっているようである。
家に戻り玄関の引き戸を開けるなり、
「あらいやだ。正座の人。帰って来たの?」
洋服に着替えた母が奥から出て来た。
松吉を背負い片手にそのザックを下げた直己は、
「お母さん、間違えて道を教えたでしょう。散々歩いてまた熱が上がってますよ。病み上がりの人にお茶なんかやらせて」
と珍しく母を非難した。
「だって……そんなこと言ったって」
と不満たらたらの母に今度こそ有無を言わせず座敷に布団を敷かせた。この強引さもまた直己には珍しいことだった。
「お父さんそっくり」
母が捨て台詞のように呟いたのは、もちろん誉め言葉ではない。
直己は恰幅のよかった祖父と違い、中肉中背だった父に似ている。
兄の正樹の方が祖父に似ている。大学病院の教授としてはその方が格好もつくだろう。
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