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第5話 普通じゃないスケジュールと修学旅行の夜

 3 普通じゃないスケジュールと修学旅行の夜  座敷にはまだ炭で火を起こした残り香がある。  パジャマに着替えさせている時にわかに目を覚ました松吉は、熱に潤んだ目で直己を見つめてまた、うふふと嬉し気に笑う。  半分寝ぼけているのだろう。片頬にえくぼが出来ている。  だがスマホが鳴った途端に覚醒してきょろきょろあたりを探し始めた。  直己がザックのポケットに見えているスマホを出して差し出すと、 「はい、松吉です」  即座に電話に出るも、声は痰が絡んで掠れている。  師匠からの電話らしく、居住まいを正して話し続ける。 「申し訳ありません。はい。存じております。今日中には福岡に入りますので」 「松吉君。今日中に福岡って無茶な……」 「いえ。大丈夫です。福岡、仙台、東京、札幌ですね。存じております」 「ちょっと待て。何だそれは?」 「すみません」  と松吉がスマホから顔を離したのは、げほごほと咳をするためだった。  すかさず直己はそれを奪って、 「お電話変わりました。医者の喬木(たかぎ)と申します」  切り口上だった。 「松吉さんを診察しましたが、熱でかなり体力が落ちています。今から福岡など無茶です。二、三日は安静にしてください」  一拍おいて電話の向こうから、 「わかりました」  男の低い声が聞こえた。腹の底に響くような低音だった。 「では松吉にお伝えください。私は、やのあさって東京に戻ります。その時に家に来るようにと」  直己が伝えるまでもなく、松吉はスマホをひったくると同じことを言われたらしく、 「やのあさって東京ですね。かしこまりました。大変申し訳ございませんでした。師匠」  きちんと復唱して何度も電話に向かって頭を下げるのだった。 「福岡、仙台、東京、札幌って何なんだ?」 「師匠のスケジュールです。私もお供します」 「そのスケジュールは普通じゃないだろう」 「落語家には普通です。仕事が来た順番に受けるから仕方がないんです。失礼ですが先生はおいくつですか?」 「三十四才だけど?」 「師匠は五十二才です。でも平気でそのスケジュールをこなしてらっしゃいます。若造の私が出来ないとは言えません」 「若造って……」  微妙に古い言葉遣いに思わず笑ってしまう。  熱で苦しいだろうにまだ正座をしている松吉を無理にも布団に寝かせて掛布団を掛ける。 「今、注射の用意をして来るから。寝てなさい」  何とはなしに松吉の額に手を当ててみる。熱を測るなら体温計があるのに。   ちりちりと掌に当たる五分刈りの髪の感触を楽しんでいる自分に気づき、そそくさと座敷を後にした。  結局、松吉は昨夜も含めて喬木医院に三泊四日の滞在となった。金土日の週末である。 「落語家は土日祝日とか、みんなが休んでる時が忙しいんです」  と松吉は帰りたがったが、ドクターストップを行使した。  母は迷惑そうだったが、直己には何がなし嬉しい週末だった。  松吉は少しでも熱が下がれば布団を畳んで掃除だの何だの家事を始める。母もまた便利に使おうとするから、 「病人なんですから、お母さん」  と直己はいちいち注意をする。  これまでに母親にこんなにも逆らったことはなかった。 「お父さんに似て来て……」  といった言葉も、今までになくよく聞いた。  四年前に亡くなった父の仏壇に手を合わせる回数より多いかも知れない。  とはいえ、松吉の気働きは直己が止める暇もない。  座敷の布団で食事を摂った後は、食器をダイニングキッチンに運んで洗って片付ける。ついでに他の食器も洗いゴミを片付け、掃除機まで持ち出す。 「そんなことしなくていい」  と襟首を掴んで布団に戻す程だった。 「前座は何でもやるんです。落語家は高座で何にでもなるからその練習です」 「何にでもなる?」  実は直己は落語をよく知らなかった。日曜日の夕方にテレビでやっている「笑点」という番組は知っていたが、 「あれは落語じゃないです。大喜利(おおぎり)っていうお遊びです」  とのことだった。 「落語は一人芝居みたいなものです。上下(かみしも)()るって言うんですけど。右向いたり左向いたりして違う人物になるんです」 「違う人物?」 「いろんな登場人物がいます。熊さん八つぁん、与太郎に大家にご隠居さん、おかみさんに花魁(おいらん)、お侍。狸や狐にもなりますから」 「へえ」 「ここでお茶をやらせていただいたのは、とても勉強になりました」  と松吉は風炉が置かれていた場所と今は何も軸が掛かっていない床の間を見やる。 「落語に〝茶の湯〟っていう噺があるんです。パロディは元ネタを知らないと面白さがわかりませんから」 「つまり〝茶の湯〟って茶道のパロディ?」 「そんな感じです」 「へえ」  直己は松吉の話にいちいち「へえ」と間抜けな声を出すばかりである。あまりにも落語の知識に乏しいのだ。  しかし大きな瞳をキラキラさせて自慢げに語る松吉の話に耳を傾けるのは楽しかった。  病人一人を寝かせるわけにもいかないと、その夜も直己は松吉の隣に布団を敷いて寝た。  二つの布団の間に一跨ぎ程の隙間を作ったのだが、気がつくとその隙間が狭くなっている。 直己が風呂だの歯磨きだの床を立つたびに、松吉が少しずつ布団をずらしているようだった。  しまいに隙間がなくなり二つの布団がくっついた時、物問いたげに松吉を見ると、 「だって声が遠いし……」 「修学旅行か」  言った途端に枕が飛んで来た。 「松吉くん。君は病人なんだから、安静にしていなさい」  直己は枕を松吉の頭の下に置き、掛布団を直してやる。  布団の衿口からえくぼの口元を覗かせて松吉は、いたずらっぽい目をして問う。 「前に真柴駅で上り電車がなくなった時、本城駅まで下れば最終の上り急行に乗って帰れるって教えてくれたの先生ですよね?」 「ああ。覚えていたのか」 「ですよね。だからあれから真柴駅終点の電車に乗ることにしたんです」 「はい?」 「だって、うっかり寝過ごしても真柴駅ならまた先生に会えるかも知れないし」 「はあ」 「楽しみじゃないですか。そしたら、ホントに先生に会えた」 「へえ」 「ていうか、応接間で一緒に寝てるんだもん。びっくりした」  見れば松吉は掛布団を目元まで引き上げて顔を真っ赤にしている。熱がぶり返したのでもなさそうだが。  唐突に昨夜、聴診器を当てようとした松吉に、ふふふと笑って抱きつかれたことを思い出した。

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