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第6話 普通じゃないスケジュールと修学旅行の夜
「風呂に入って来る」
気まずく部屋を出ようとする直己に、松吉はにわかに起き直り決死の表情で、
「先生、ご連絡先伺ってもよろしいですか?」
と言うのだった。
これもまた直己は、
「はあ」
と間抜けな声と共にスマホを取り出すのだった。連絡先を交換すると松吉はスマホを胸に抱かんばかりにして、
「僕いや私、今LINEの招待状送りました」
「ああ。別に〝僕〟でいいよ」
直人は松吉が医者を相手に言葉を丁寧にしていると思ったのだが、
「いえ。〝私〟と言い慣わすように師匠に言われています」
「へえ」
「お客様相手に俺とか僕では失礼だから、普段から〝私〟を口癖にしておけと」
「なるほどね」
直己は首を傾げながら座敷を出た。
今のはつまり愛の告白なのだろうか。
確かに直己は同性愛者だが、松吉はどうなのだ。
単に年上の友達が欲しいだけかも知れないではないか。
恋愛経験のない直己には、その辺の判断がまるでつかない。
昔は女の子によく告白されたものだった。
女性には興味がないからこそ迷うことなく交際を始めた。
だが松吉を好ましく思えば思う程そう簡単に先に進めないと思ってしまう。
それにつけても、これが初めての男性からの告白である。実は直己は男にはもてない男だったらしい。
土曜日は午前中のみの診察である。
熱が下がった松吉はまたさっさと起きて座敷の布団を上げて掃除を始める。
「ついでに医院の玄関も掃いてもらったら?」
と母が言い出すから、嬉々として医院の前を掃き始める。
朝一番でやって来た清川の婆様は、
「いがぐり頭の人が玄関を掃いとっただよ。新しい先生かね?」
などと訊くのだった。遅れてやって来た豊川の婆様も、
「新しい先生はハンサムだねえ。まるで韓流アイドルみたいだよ」
既に松吉を医師にしていた。
午前中の診療が終わり、医院を閉める時も松吉は、
「掃除しますか?」
家から繋がる短い渡り廊下を歩いて医院にやって来る。
「いいから。向こうでのんびりしてなさい」
と言う直己を嬉し気に眺めている。
「先生。白衣の方がカッコいいですね」
「はあ」
何をどう答えたものやら。
午後、松吉は応接間に籠って不用品やら段ボール箱やらが詰め込まれた部屋の整理をしていた。
母に段ボール箱に入っている不用な衣類を持って行ってもいいと言われたらしい。
駅向こうのコンビニエンスストア開店の時にもらったTシャツやら、製薬会社に貰ったトレーナーやら、兄や直己の古着まで入っている箱である。それを開けて見ているうちに部屋掃除を始めてしまったらしい。
「だから、掃除はいいから。欲しい洋服だけ持って行きなさい」
戸口から声をかける直己に松吉は、室内に飾られた賞状やトロフィーを示した。
「先生は直己さんですよね?」
「ああ。それは兄貴のだ」
水泳大会、算数オリンピック、子供発明大会、ピアノコンクール等々どれも喬木正樹 の名前である。
「先生のはないんですか?」
「自分の部屋にしまってあるよ。そんなにはないけど」
「見たいな」
「見るほどの物じゃない」
「あれは犬小屋ですよね?」
今度は松吉は窓の外の古い犬小屋を見る。
「昔飼ってた犬のだ。いつの間にかいなくなった」
「昔は外で犬を飼ってたんですね」
松吉は外飼いの犬を見たことがないらしい。自分との年齢差を思い知る直己である。
「そば屋のペロ……私はあれがここの犬かと思って。だから連れて行こうと思ったんです」
「駅に行くつもりじゃなかったのか?」
「駅員さんに預けて帰ればいいかと思って」
何故だか胸が詰まって言葉を失う。
そんな直己を松吉は見つめている。風邪声が治ってみると松吉の声は高過ぎず低過ぎず程よい音域だった。直己の耳にはちょうど心地よい。
「先生はあの産婦人科クリニックのお嬢さんと結婚されるんですか?」
「さあ」
「女の人が好きなんですね」
「……普通みんなそうだろう」
「私は女の人とつきあったことがありません」
「松吉くんは、まだ若いから……」
「どちらかというと男の人の方が好きです」
言葉を飲み込んだきり何も言えなくなった。そういう時に限って母がやって来る。
「お風呂にお湯入れたから。直己さん松吉さんと一緒に入ったら?」
「何で一緒に入るんだよ!」
いきなり母親に嚙みついていた。母はあんぐり口を開けている。
「だ、だって……お兄ちゃんとよく一緒に入ってたじゃない」
「松吉くんはお客さんだ。一緒に入るわけないだろう」
そして松吉に向かって、
「まだ病み上がりなんだから、あまり長湯しないように。軽く入ってきなさい」
と命じて直己は二階の自室に上がった。
部屋で一人パソコンを開いて落語について調べている。
落語家は昔ながらの序列の厳しい社会だという。松吉の「前座」という立場は「見習い」に次ぐ下っ端で「二つ目」「真打」と順番に昇進して行くものらしい。
なればこそ、あれこれ気を使い働くのかと納得する。
「お先にお風呂いただきました」
階下から松吉の声が響く。
「はーい!」
と部屋から声を返す。
困った。頬がしまりなく緩んで、胸がわくわくするのが治まらない。
いや待て。松吉は外飼いの犬も知らない若者なのだ。
自分はもはやおっさんなのだと自省するも、顔がにたにたするのが止まらない。
この夜は二階の自室のベッドで寝た。松吉の熱も下がったから心配ない。
二つ並んだ布団で寝ると自分が何やら手を出しそうで怖かった。
その心配はやがて現実になるのだが。
ともあれ、幼い頃からずっと暮らした六畳の狭い和室はそれなりに安心だった。
日曜日の早朝、真柴駅まで松吉を送った。まだ朝は肌寒く、つい二人で身を寄せあうようにして歩いていた。
「こんなに近かったんですね」
と感動する松吉。
今朝は製薬会社の突飛なゆるキャラがプリントされたジャージの上下を着ている。デザインにはあまりこだわらないらしい。
「ああ。熱を出してた人だねえ。治ってよかったねえ。もう乗り過ごさないように気をつけなさいよ」
駅長の加藤に声をかけられ松吉はこちらにも丁寧に頭を下げるのだった。
「そう言えば先生。日野巡査の奥さんが牧田産婦人科クリニックにいたそうですねえ」
「そうなんですか? 駅長は何で知ってるんですか?」
「いや。うちのがあそこで医療事務のパートを始めてねえ。日野巡査の所もそろそろおめでたですかねえ」
「なるほど」
こうして噂は巡り行く。直人は駅舎を眺めている松吉を見やる。
喬木医院は真柴駅で寝過ごした謎の男を泊めた……そんな噂もすぐに真柴本城中に行き渡るのだろう。
新宿行きの各駅停車に乗る松吉を、直己は改札の外から見送った。
春休みが行ってしまう……そんな気分だった。
松吉は電車の窓から手を振って、えくぼを見せていた。
松吉からはその日のうちにメールとLINEの両方でお礼が届いた。
数日後には封書のお礼状も届いた。その中に六月に本城町のコンサートホールで開かれる〝音羽亭弦蔵 独演会〟のチケットが二枚入っていた。
松吉は手伝いだけだが、ぜひ自分の師匠の落語を聞いて欲しいと書き添えてあった。
直己はこのところまめにYouTubeで落語を検索しては聞いている。
音羽亭弦蔵の落語を探して聞いてみると人情噺ではなく、バカバカしい滑稽噺ばかりだった。
何となく勝手に松吉は人情噺をやりたがっていると思っていた直己には意外だった。
と、ここまで熱心に松吉や落語の周辺に関して調べているのに、直己は当の松吉のメッセージや手紙に何の返事も出していないのだった。
お礼状にまたお礼を出すのも変だろう。などと思ってみるのだが、何をどう言えばいいのかわからないのが本音である。
見合いをした牧田産婦人科クリニックのエステル嬢からは、仲人を通して交際したいとの意向が伝えられた。ちなみに仲人はあの茶室にいた四人組の主婦の一人である。
直己はとりあえず交際する旨伝えた。結婚の意思はないが、あれこれ理由をつけて断るのが面倒なだけだった。初見で断るより数回会った方が断る理由も探しやすい。
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