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第31話 I can‘t stop loveing you

 パーティー当日は華燭の典にふさわしい秋晴れだった。  ここしばらく出番のなかったダークスーツを引っ張り出して身につける。ネクタイはこのところ結ぶ機会が多くなっている。エステル嬢と見合いをした頃とは段違いである。  新宿の病院に職場復帰する際にスーツにネクタイで出かけたのだ。たまたまそれを見た松吉の目がハートになったのを見逃さなかった。おそらく直己が松吉の着物姿に胸キュンになったのと同じことだろう。  以来、少しばかり不純な動機でネクタイを締め続けている。エッチの前にネクタイをしゅるっと抜くと松吉は大いに盛り上がるようなのだ。  あまり大きな声では言えないが、直己も夢の契りというやつがある。  着物の松吉を裸にしたいのだ。  悪代官のように帯の端を持って、 「あ~れ~ご無体な~」  と言うのをくるくる回して乱れた着物の裾から手を入れて……また当身を食らうだろうか?  ……いや、結婚披露パーティーの話である。  都内の松吉のアパートまで迎えに行き、そこから二人で会場に向かう約束である。昨夜も寄席の夜席から打ち上げまで働いたようだから、寝たのは朝方だろう。  直己は何も食べずに出た来た。どうせ宴席で食べるのだ。コンビニでコーヒーでも買って行って二人で飲もう。  車内に流れるラジオの音楽に合わせて鼻歌を歌う。 「I can‘t stop loveing you」  愛さずにはいられない……。  ふと思い出し笑いをする。 「レイ・チャールズ!」  あの犬の名前である。  ジョンでもサムでもない。フルネームでレイ・チャールズという名の犬だった。  名付けたのは瀬戸内シンディである。譲られる時に変えてもいいと言われたが、そのままにしていた。殺処分を生き延びた名前だから、という理由は後付けで単なる無精ゆえだった。  ちなみに母は瀬戸内シンディを「犬の人」と呼ぶ。松吉が「正座の人」であるのと同じこと。母にとって直己の友人には名前がない。そうして喬木家では犬の名前もなくなった。  レイ・チャールズなど和犬に似合わぬ名前だと家族一同に不評で、いつの間にやら〝犬〟か〝ワンコ〟と呼ぶようになっていた。  犬の名前を忘れていたわけではない。思い出したくなかっただけだ。  直己にはそういう事がまだ沢山ある。  たった一つの悲しいことを見ないふりをしたばかりに、多くのことを見逃していた。  嬉しいこと、楽しいこと、可笑しいことに、くだらないことなどいろいろを。  そんな事どもも追々思い出すことだろう。  都心に向かう道は首都高速に乗るまではただひたすらに真っ直ぐなアスファルト道路である。  田園風景の中に時々スーツの店や大型書店、ファミリーレストラン、ガソリンスタンドなどが現れては過ぎて行く。歩いている人は一人もいない。  秋だというのに日差しが強い。  まるで夏日のようにアスファルトの道に逃げ水が見える。  ゆらゆらと立ち上る蜃気楼の向こうに、柴犬が駆けて行く。そんな気がする。    とつとつとリズムを取るような四本の脚。小麦色の毛並みで、まるで狐のような顔付である。尻尾がくるりと巻き切らず、走るたびにゆらゆら揺れる。    その横にもう一匹、むく犬が見える。そば屋のペロが並走している気がする。  共に愛されなかった者ども。けれど自由だけは手に入れた。そして並走者も。  犬の名前は…… 「レイ・チャールズ」  もう一度 きちんと声に出して言う。  松吉は最近しきりに言うのだ。 「私の本名は松橋礼司って言うんだよ」 「知ってる」 「二つ目に昇進したら芸名は松吉じゃなくなると思うんだ」 「へえ。そうなんだ」 「だから今から松吉じゃなく礼司ってさ」  と本名で呼んで欲しいアピールをする。 〝レイ〟と呼んでやったら喜ぶだろうか。犬の名前だが。 「松吉が礼司に戻ったら、梅吉の名前は?」 「梅吉も昇進するんだよ。おめでたい名前を考えてあげる」  今のところは保留案件である。  二人だけの新しい名前で呼ばれるのが待ち遠しい。  直己はまたにやにやと頬を緩めて車を走らせている。  一人だけれど一人ではない道を。 〈了〉

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