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第30話 I can‘t stop loveing you

15 I can‘t stop loveing you  やがて夏休みが終わる頃には喬木医院の患者数もつばなれして元に戻りつつあった。新たにパート看護師を雇って仕事を続けている。  来年度には新宿セントテレジア総合病院のアルバイトを増やすつもりである。少しずつ勤務日数を増やして、やがては今と逆にしたいと思っている。  こちらの医院は週二日の診察で、他は新宿の病院という風に。  喬木医院を閉じないのは母や甥や姪達のためではない。  毎朝やって来るジジババや、今もたまに喘息の発作を起こす夏目祥太郎のような地元患者の為である。もちろん密かに相談に来る同性愛者のためでもある。  関根正嗣は夏休みを生き永らえて時々擦り傷の治療にやって来る。戸井田翔太とは相変わらずただの先輩後輩の仲らしい。それでも先輩の話を散々に聞かされる。  同性愛者はカミングアウトしなければ、そんなのろけも口に出来ないのだ。かつてのエステル嬢と同じことである。わかっているから直己は適当に聞いてやる。  新宿の病院勤務が増えたら、いっそ都内に引っ越そうか。向こうの住まいからこちらに通勤する手もある。何なら松吉と同居して……などと考えて一人にやにやしてしまう。 「先生。僕の話ってそんなにおかしいですか?」  関根正嗣に不審そうな顔をされる。 「いや……君たちは青春なんだなぁと思って」  と言い訳するが、実は直己こそ今が青春なのかも知れない。  清川婆様は相変わらず自家製の総菜を持って来てくれる。  正直、直人の健康な食生活はそれで維持されている。婆様の総菜がなければ毎日カップ麺とコンビニ弁当のローテーションのはずである。  その好意に甘え切るわけにも行かない。家政婦と言う名目で月に幾ばくかの給料を支払うことにした。遠慮されたが、こればかりは受け付けなかった。  落書きを消す作業をしてくれたお礼にのし袋を渡そうとしたのが固辞されたからである。  豊川婆様も噂が下火になる頃、何もなかったような顔をしてまた診察に訪れた。  山川爺様は痛風の悪化に伴い、本城総合病院の医師が主治医になったようである。  その代わりと言っては何だが、桃井の爺様が日参メンバーに加わるようになった。かの桃井樹里の祖父である。  そして清川婆様は一枚の白茶けた写真を直己にくれた。 「これを先生に持っといて欲しいだよ」  と、渡されたのは白黒写真だった。セーラー服を着た二人の美丈夫が肩を並べて写っている。 「これは……私がいただくわけにはいきません。清川さんの大切なお兄さんの写真でしょう」 「わしもこの年だで、いつお迎えが来るかわからん。その前に、ちゃあんと訳を知ってる先生に預けたいだよ」 「…………」  直己はその写真を押し頂いた。声が出なかった。 「先生は、松吉さんと一緒になるだら?」 「……どうだか」 「ほうだな。先生は浮気するかも知れん。本城コンサートホールで綺麗な振袖の人とデートしとったと噂だで」 「いや、あれは煙幕、その……」  やはり田舎の噂の伝播力は凄まじい。  清川婆様は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑うと、直人の腕を叩いた。 「いいだよ。生きてさえいりゃあ」  直己はやはり声が出ないで何度も頷いた。  清川婆様の大切な写真は木製の写真立てに入れた。  そして診察控室にある医療器具などを収めた鍵付き棚の手前に置いた。まるで門番であるかのように。  棚の中には祖父が残した鋭く光るメスが並んでいる。  この医療器具が自死に使われることがないように水兵服の二人が見守っているのだ。  落語家の前座は忙しい。家の鍵は渡してあるのだが、松吉が泊りに来るのは月にほんの数日である。それも終電でやって来ては、気がつくと布団の中にもぐり込んでいたりする。 「松吉。訊いていい?」  直己が尋ねたのは、そんな深夜、いや早朝のことだった。  これから寝ようとする松吉と逆に起きようとする直己が、ほんの一時共にする時間である。背中にくっついている松吉に向き直って腕の中に抱えて尋ねた。 「あの時……高松に行く前だけど。死ぬなとは言わなかったね?」  実は関根正嗣少年が死にたいと言った時、直己はとっさに「死ぬな」と言いそうになった。  けれど辛うじて「死んじゃいたい?」と疑問形にしていた。  そして口をついて出たのは松吉に言われた言葉だった。 「絶対に生きていること」  松吉は黙り込んでいた。肩を抱き寄せて、同じことをもう一度訊く。 「死ぬなじゃなく、生きてることって言ってくれたね?」  座敷の障子からは夜明けの透明な光が兆している。ぼんやり見える松吉の目は不審者のようにきょろきょろ動いている。その瞳がみるみる涙で溢れるや、 「師匠が……」  と言いった途端にぽろぽろと頬にこぼれ始めた。  直己はまるでテーブルに零れた水を拭くように、掌で松吉の頬を拭っている。 「師匠に言われた。おまえは否定的な言葉ばかり使う。もっと前向きに言えって。だから……」 「だから、死ぬなじゃなくて生きろ……なんだ」  頷く梅吉の直己である。松吉は身も世もなく啜り泣いている。 「もうやめてよ。あの時のことは思い出したくない。高松にいる間、もし今死んでたら、もし今って……」 「ごめん……」 「もう、もう本当に……二度と嫌だ。ああいうの。梅吉はずっと生きてなきゃ嫌だ」 「ごめん。思い出させて、ごめん。悪かった。もう二度としない」  泣き暮れる松吉を抱き締める。たぶん梅吉は一生涯松吉に頭が上がらないだろう。 「ありがとう」  言ってから気がつく。  この騒ぎで初めて言った言葉かも知れない。おまけも付けてみる。 「ありがとう。感謝してる。愛してる。世界で一番」  牧田エステル嬢は真柴本城市の実家を離れて、世田谷区に転居した。空手家でもある体育教師の恋人と同居してパートナー宣言をするためである。  世田谷区には同性同士のパートナーシップ制度があるらしい。異性間の結婚制度には及ばないが二人の関係を公式に認められる制度ではある。  区役所での正式な宣誓を済ませたので、親戚や友人を招いてのお披露目パーティーを行うとのことである。  直己と松吉には連名の招待状が届いた。同性愛カップルとして連れ立って参加できる場所など初めてだった。というか素人童貞だった直己には恋人自体が初めてなのだが。  松吉は嬉々として、 「梅吉のが字がうまい」  と直己に筆ペンで返信葉書を書かせるのだった。 「〝御〟と〝様〟を消すだけだぞ」  二本線で消してから、宛名の〝行〟を〝様〟に直す手間もあったと気がつく。 「ほらね。さすが荒又書道教室! 〝様〟の字が様になってるよ」  ほれぼれと見つめる松吉は胸に〝荒又書道教室〟と書かれた半袖Tシャツを着ている。  直己が小中学校の頃に通っていた書道教室でもらった物である。応接室の段ボール箱はもはや古代遺跡ではないか。  気がつくと松吉は隠れて袖口で涙を拭いている。  その気持ちはわからないでもない。連名の招待状がこんなにも嬉しいとは思わなかった。

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