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第29話 そして烏はカアと鳴く
千代川土手を歩く。
桜並木は葉桜の時期も過ぎ、今や猛々しいまでに繁った葉がざわざわと川風に揺れている。
間もなく夏休みも始まるが今はまだ蒸し暑いだけの日曜日である。野球場で子供達数人がサッカーをしている。
「喬木せんせーい! 取って! 川に落ちる!」
呼びかけられて顔を上げるとサッカーボールが転がって来る。川に落ちる手前で足で止める。
土手下のこの野球場はバックネットこそあるものの、早い者勝ちでサッカー場にもバレーボール場にもゲートボール場にもなるのだ。
直己はゴールキーパーのようにサッカーボールを両手で投げた。
「すいませーん!」
と足で受け止めたのは、真柴中学校二年生の戸井田翔太 。共に遊んでいるのは、同じく二年生の二人と一年生の関根正嗣 である。
この関根正嗣はつい先日、身を縮めるようにして喬木医院にやって来た。
安田看護師は辞めて行き後任も入れていないから、直己一人が受付から診察から何でもこなす。
「どうしたのかな?」
「サッカーで怪我しちゃって」
と見せた脛の傷はかすり傷だった。放っておけば自己治癒する傷だが一応絆創膏など貼ってみる。そして左足首を触診する。
「前に捻挫した足は?」
「ずっと昔に治ってます。怪我したの小学校六年生の時ですから」
「そうだっけ?」
と微笑んでしまう。
今の中学一年生が小学校六年生だったのはほんの数か月前なのだが、当人にとっては大昔なのだろう。
少年は唐突に、
「お、女より男のが好きなんです」
と言い出すのだった。見ると関根正嗣は青ざめて卒倒でもしそうな顔をしている。
「男の子が好きなんだ?」
「お、男の人で想像してオナ……あの、一人で変な事しちゃったり……ど、どうしたらいいんですか」
「どうしたらいいのかねえ?」
直己は首を傾げた。こういった心の問題に直己は「それはこうしなさい」と自信満々に答えられる立場にない。こちらこそ精神科の患者なのだから。
ふと幼さの残る顔を見上げて、
「君は誰かに相談してここに来たの?」
「そ、相談て……別に、一人で……」
「すごいね」
少年の目をまっすぐ見た。
「君は一人で悩んで一人で決心して一人でここに来た。すごいと思うよ」
「別に……他人に頼ってるだけだし」
うつむきながらも安堵の表情になる少年である。
机に向かってカルテを書き始めた。
「僕が君ぐらいの頃は、怖くてとても他人に相談なんか出来なかった……いや今も……」
言いながら直己は少年ではなく自分の中を見ていた。
「自分から他人に助けを求めるのは、実はとても勇気のいることなんだよ」
「そうかな?」
「そうだよ。黙ってたら普通は誰も助けに来てくれない。一人で朽ち果てるのが関の山なんだけど……」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
と言いながら涙ぐみそうになった。
松吉達のお陰で自分は朽ち果てずに済んだのだ。指先で目を拭ってカルテを書くふりを続ける。
「君は自分で自分を助けに来た。もっと自慢に思った方がいいよ」
「……でも。死んじゃいたい」
「死んじゃいたい?」
「生きてたってしょうがないです。僕なんか頭悪いしサッカーだって下手だし。そんでホモって……もう最低」
「あの噂を聞いて僕に相談しようと思うなんて。頭がいい証拠だよ。逆転の発想じゃないか」
「だって。先生なんかお医者さんなのに、ホモだからってあんな噂たてられて……生きてたっていいことないでしょう」
「そうだね。噂はね……きついよね」
子供相手に何を真剣につらそうな顔をしているのだろう自分は。そう思いながらも平気な顔は出来ない。
そして、無理にもにんまり笑って見せた。
「でも、君は絶対に生きてること」
と誰かに聞いたような台詞を口にする。
不満そうな少年に直己は付け加えた。
「夏休みが始まるまででいい」
「な、夏休みが始まるまででいいんですか?」
「うん。夏休みが始まるまでは生きてること。その先はまた一緒に考えよう」
「じゃあ、夏休みに死んでもいいですか?」
「さあね。でもサッカー部は夏休みになれば、青少年の家で夏合宿があるだろう」
何かがヒットしたようだ。少年は頬を赤らめてうつ向いた。
「まあ、生きてりゃそこそこいいこともあるよ」
「どんないいこと?」
「それは、まあ……生きてみてのお楽しみかな」
患者は来ないし時間はいくらでもある。
関根正嗣のぐるぐる回る話(それは直己にも覚えのある思考だった)を辛抱強く聞くのだった。
そして何がなしすっきりした表情の少年を「いつでもまたいらっしゃい」と帰したのだった。
少なくともあの噂は、こういった悩める若き同性愛者の役には立ったわけである。
それもまた〝そこそこいいこと〟のひとつかも知れない。
野球場のサッカーを見ていると、さっきから関根正嗣は戸井田翔太だけを見てボールを逸している。
青少年の家での夏合宿は少年にとって天国か地獄か。恋愛成就なるか、まあ健闘を祈るしかない。
母はまだ金沢に留まっている。だが真柴本城市の喬木医院は閉めずに直己が院長を続けるように言い張る。やがて孫達が大人になって、歴史ある(?)喬木医院を継ぐまではと。
「そうですか」
と電話で応えた直己だが真意は「何を勝手なことをほざいているのだ」だった。
ちなみに兄は大学で医学部副部長職こそ解かれたが、ただの教授として、その割には高給で雇われ続けている。
大学にしてみれば、不正の片棒担いでくれた人間を無下に捨てることは出来まい。
その代わりトカゲの尻尾切りをされた下っ端がいるはずだ。責任を負わされて辞職させられた人間。
言ってみればこの家庭内における直己的立場の人間が。
また、瀬戸内ランディがアメリカに旅立ったという噂も聞いた。ダンサー修行だという。
日野巡査がいきなり免職になったのは、何かその置き土産があったのだろうか。
「日野巡査が未成年者猥褻……」
「お巡りさんが未成年者を監禁して猥褻行為に及んだって」
コンビニでホームセンターで噂を耳にするも、直己の姿を見つけると人々は口を噤む。未成年者に猥褻行為を働いたという犯人は、いつの間にか校医から警官に変わっていた。
とはいえ直己が真柴中学校の校医に復帰することはなかった。本城総合病院の医師が新たな校医に指名されたようである。
実のところ、サッカー部など運動部の夏合宿にも毎年チームドクターとして呼ばれていた。 そのための休診日も予定していたのだが今年は見事に空いてしまった。
それもまたよし。寄席にでも通って松吉を見つめていよう。
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