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第28話 そして烏はカアと鳴く
14 そして烏はカアと鳴く
夏らしさは一時で、まだ雨模様の日々が続く。
夕食後に車で往診に出かけたのは、夏目祥太郎の家だった。例の本城工業高校の生徒である。
小児喘息で幼い頃は季節の変わり目によく喘息の発作を起こしていた。ここしばらくは緩解していたが、数年ぶりに発作が起きて家族もあわてて電話して来たのだ。
本城総合病院に担ぎ込む事態になるかと案じたが、治療が功を奏したので帰って来た。
自宅に帰る頃には小雨も上がっていた。
大通りから自宅前の路地に車を入れると、塀の前にまた人影がある。
運転席で一瞬身構えたが、ヘッドライトの明かりに浮かび上がるのはザックを背負った松吉だった。
駅の方から踏切の音が聞こえる。終電を逃すにはまだ早い時刻である。
「どうしたんだ?」
運転席の窓から顔を出して尋ねると、
「思ったより早く仕事が終わったから来ちゃった。今日泊まって行っていい?」
たちまち頬が緩んでしまう。胸の底にわだかまっていた汚泥のような屈託が消える。
そう意識するより早く、松吉が車窓に手を掛け口づけをして来る。
ハンドルを握ったままそれを受ける。
うふふと笑いながら松吉の舌は直人の唇を割って入り口中を遊ぶ。何故こういう時に限って下腹部直下に響くキスをする?
名残惜しいが松吉から顔を離す。ここは公道だ。見つかったらエステル嬢との煙幕の甲斐もない。
「先に入ってて」
と玄関の鍵を渡すと、車を駐車場に向けた。
一人車中で存分にだらしなく笑う。久しぶりの共寝だが身体は大丈夫だろうか?
などと案ずるまでもなく、ブレーキを踏む足に違和感があるのは下半身が既にもっこりしているからである。身も心も準備万端である。
すっかり嬉しくなる一方の直己である。
玄関灯は暗くなると自動点灯する。足元を照らされて引き戸を開けると中は暗かった。玄関の明りを点けながら、
「松吉……?」
同様に薄暗い奥を覗き込むが、人の気配はない。
と、みしりと上の方から物音がする。玄関を上がってすぐ先には二階に上がる階段がある。
「二階にいるのか?」
直己が階段を上がって行くと、襖の空いた自室から明かりが漏れている。
入ってみるとベッドを眺めるようにして突っ立っていた松吉が、ゆるりとこちらを振り向いた。
「ああ、こっちに来たのか。最近は座敷で寝てるんだ。行こう……」
松吉の手を握って引こうとした途端に「あっ⁉」としか声が出ない事態に陥った。手を万力で締められて捩じ上げられたような激痛が走る。
「ひいーーっ⁉」
怪鳥のような雄叫びを上げているのは自分だった。
手の痛みから逃げようとして、気がついたら畳に這いつくばっていた。
「松……松吉……?」
気がつくと腕を背中に捩じ上げられて床に組み伏せられているのだった。頬がちりちり痛むのは畳で顔が擦れているからである。直己の背中の上には松吉が馬乗りになっている。
「ここ……この部屋、来るの嫌だったんだ」
という声は耳の裏から聞こえて来る。
武道館で見た空手競技の技が思い起こされる。自分は松吉に組み伏せられたのだ。こんな愛撫があるのか? いや、愛の技なわけないだろう。
思うより早く松吉の手は荒々しく直己のデニムのファスナーを開けペニスを引きずり出した。
驚きのあまりあんぐり口を開けただけで声すら出ない。
松吉の手は愛想もこそもなく乱暴にしごき立てる。まるで直己の逸物が親の仇であるようだ。
「でも先生が心配で……だってLINEも電話もメールもスルーだし。牧田産婦人科クリニックに電話してエステルさんに言って……」
背中にのしかかった松吉の息と声が背後から聞こえる。
松吉は警察に見回ってもらおうと提案したらしい。その案を却下したのはエステル嬢だった。
「喬木医院に警察が来たって近所で噂になると悪いからって……二人で見に行くことにしたんだ。そしたら清川さんが家の前でうろうろしてて、ずーっと医院が開いてないって」
玄関に鍵はかかっていなかった。室内も明りが点けっぱなしだった。
そこに三人で声をかけながら上がったという。
真っ先に二階のこの部屋を思いついたのは松吉だった。
「本当は嫌だったんだ。この部屋……あの、あの朝の……思い出して」
松吉の手はこの上もなく乱暴に直己をしごき続ける。敏感な皮膚に爪を立てんばかりにされるのだ。
「こんな風にされて……めっちゃ惨めで、情けなくて……」
「ちょっ、痛……もう少し……」
もう少し優しくと言いかけて口を噤む。馬乗りになっている松吉は半分泣いているような声だった。
その息遣いと手の動きだけで恨みが伝わって来る……復讐をされている。
この状況なのに嬉し気に勃ち上がる自分は一体何なのだ?
接する松吉の掌がにちゃにちゃと淫猥な音をたて始め、やがて直己は大きく背筋を反らして打ち震えた。
押さえつけられ暴力的に片手で犯され射精してしまった。
直己の荒い息を黙って聞いてから、松吉は身体から離れた。にわかに背中が軽くなった。
「これでチャラにする。もう忘れる」
松吉の声が廊下から聞こえ、足音はすぐに階段を降りて行った。
しばらく直己は起き直る気力がなかった。
「何だかな……」
口の中で呟いたりする。
あの雨の夜、ファミレスでランディに見せられた猥褻写真が蘇る。
つまりは自分も日野巡査と大差ないゲス野郎なのだった。
あの朝、直己が松吉にやったのは正にこういうことなのだから。
思い描いていた愛の夜とは裏腹の、殺伐とした夜と化した。
甚だ情けない気持ちで、うなだれた陰茎や畳に散った精液をティッシュで拭いて回る。
「梅吉! お湯がたまったよ。お風呂入ろう」
階下から呼ぶ声は、何事もなかったかのような松吉である。
直己はとても下に降りる気になれず、呆然と部屋の中にいる。
窓の外からさーさーと単調な音がする。また雨が降り始めたようである。
ようやく階段を降りて食堂に行く。テーブルに置いてある籠には薬袋が入っている。
このところ精神安定剤も不要になっていたのに……と袋から薬を出す。
「お風呂、空いたよ。梅吉」
バスタオルで頭を拭きながら松吉がやって来た。黒いジャージを着ているのは毎度、本城一高書道部のものである。
湯上りの薄桃色の肌を際立たせる黒い色。
梅吉である直己は薬袋から取り出した精神安定剤を中に戻した。
下半身まで鎮静化してしまったらどうするのだ? と思う程度には松吉は色っぽかった。
「悪かった……」
松吉に近づいてそっと耳元に囁く。
松吉はこちらの顔をじっと覗き込んでいる。
「あの時……」
直己の胸に両掌を当てながら言う。
動悸を調べているかのようである。
「梅吉は私が好きだったんだよね?」
頷く。
「好き過ぎて頭が変になったんでしょう?」
頷く。
「もう二度としないって約束してくれる?」
何度も頷く。首がもげそうだ。
「だから、あれでチャラ。もう忘れる」
と両手を首に回される。
えくぼを浮かべると目を閉じて唇を寄せて来た。
そっと唇を吸う。
約束のキスである。
もう二度と松吉が嫌がることはしない。
松吉はひたと身を寄せ両腕を背中に回すと唇で応える。
ふっとかすかに吐息が漏れる。どちらのものだかわからない。睦言を交すように舌を絡ませ合う。耳元に聞こえる荒い息もどちらのものかわからない。
たまらず松吉の身体を両手で激しく撫で回す。密着した身体の下方に松吉の硬い欲望が感じ取れる。
「ねえ……お風呂に入って来なよ」
うわ言のように言われる。間近で見る松吉の目元は淫欲で赤く染まっている。
渋々離した唇からは細くきらめく糸が引く。唾液が二人を繋いでいる。
やはり薬を飲まなくてよかったと思いながらいそいそと風呂場に向かう梅吉である。
窓の外では雨音が激しくなっている。
今夜はどんなに声を上げても外に聞こえないだろう。
「あん! いいッ、入れて早く、んッ、梅吉スゴイ‼ ああッ……好きっ、好き梅吉ィィ‼」
なんてね。
落語には、烏カアで夜が明けて……という甚だ奥ゆかしい決まり文句がある。
烏カアで夜が明けて、嬉しい仲になりました。
平日である。通勤ラッシュが始まる前に帰るという松吉を送って直己は家を出た。
雨はすっかり上がって日差しが強まっている。遠くで蝉がミーンミンミンとまだ慣れない声で鳴いている。
「おはようございます。喬木先生。早いですねえ」
真柴駅舎に入ると箒で床を掃いていた駅長の加藤が声をかけた。一時期直己を無視していたのに何事もなかったのようだ。
「あれえ。また終電を乗り過ごしたんですか?」
と松吉に目を留めて声をかける。
「ふふ……いつもご迷惑おかけします」
松吉は笑って改札を入って行く。ちらりと直己を振り返って目で頷いて見せる。
あ、駄目だ。全身の肌に松吉が残っている。
直己は赤くなって目で挨拶を返すと踵も返した。
駅舎を出ると昇ったばかりの太陽は熱くなるぞと言わんばかりに輝いていた。
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