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第27話 祝儀と不祝儀がぶつかった件

 ランディは日野巡査の顔を指先で突いて、 「こいつだよ~。先生の変な噂を流したの」 「はい?」 「こいつ、水島鋭星と関係あったんだ」 「はあ?」 「中坊ん時、煙草吸ってんの見つかって~。交番でフェラさせられて~。クソ警官がマジレイプ。高校生になっても、ずーっとやられてたんだってさ」  直己はただ口をあんぐり開けてランディの顔を見るばかりだった。   「もう嫌だって泣くから~。〝未成年者なのに嫌がってんのに無理にやられた~〟って噂にすんぞって脅して別れろって教えたんだ~」 「はあ」  さっきから直己は、ただ阿保のように合いの手を入れるばかりである。  あまりと言えばあまりな話である。 「水島が嫌がって逃げ回ってたから~、あいつたまってたんだね~。初めてのウリセンで平気で写真撮らせんの~。これ水島に送ってやったんだ~。そんで別れられたみたい~」 「…………」  もはや何をどう考えればよいのかもわからない。  頭の中は漂白されたかのように真っ白である。   「ごめんなさい」  ランディはトマト頭をぺこんと下げた。 「まさか喬木先生に流れ弾が行くとは思わなかった~」 「……流れ弾?」 「このクソッタレ~! 水島に噂を流される前に、先生を主役にして噂流したんだよ~。嫌がってる中坊にレイプしたって~」  直己は最早まともな思考が出来ない。頭と心の情報処理が追いつかないのだ。 「日野は同性愛者だったのか?」  などと今更な台詞を吐いてしまう。 「……しかし結婚してるぞ。ご祝儀だって出したのに」 「偽装結婚してるホモなんて~いくらでもいるよ~。ご祝儀返してもらう?」 「…………」  日野巡査が同性愛者と微塵も気づかなかった自分に呆れるばかりである。  なのに向こうは直己が同類だと気づいていたのだ。だからこそ噂を流せたのだろう。  隠れ同性愛者の直己なら、日野巡査の犯行に気づいても声は上げられまいと踏んだのだろう。  にわかにふつふつと怒りが沸き上がって来る。  もし落語で笑う前なら、メスでも持って日野巡査の頸動脈を掻っ捌きに走ったかも知れない。  そう思いながら直己はただ黙って唇を噛みしめていた。 「この写真を公表したら~真柴本城市は先生の噂どころじゃないよ~。おまわりが未成年者の水島や僕と不純同性交友だもんね~」 「公表するな」  直己は腕を組んだ。ランディはじろじろ直己を見た。 「何で~?」 「何でも。今すぐその写真は削除しろ」  と言ってから言い直した。 「いや……わざわざ残して見せてくれてありがとう。でも削除して欲しい」 「まあ。そう言うと思ったけどね~」  ランディはスマホをポケットにしまった。 「残したのは僕のためでもあるんだ~。ああいう奴だも~ん。後が怖いからね~。だから、すぐには消さない」  そしてジャンバラヤを頬張るのだった。 「でも~先生が言うなら~、そのうち消すよ」  注文した料理は全て平らげてランディはデザートのメニューを眺めながら母親に言った。 「ねえ、ママ~。喬木医院にいたずらしてる奴。見当ついてるんだよね~?」  プリンアラモードを完食したシンディは、口に付いたクリームを指先で拭いながら頷いた。 「ああ、喬木くんちに落書きしてる連中ね」 「それも、こいつか?」  と直己はランディのスマホを指差した。  既に日野巡査のセックス写真は消えて、待ち受け画面に戻っている。  にっこり笑っているように見える柴犬の写真である。 「それとは別。てか~、一応警官なんだから落書きしてる暇ないっしょ~」 「あ……そうか」  妙に素直に頷いてしまう。  シンディがひらひら手を振って言う。 「他人の不幸に付け込んで憂さ晴らしする奴っているのよ」 「………」 「大丈夫。今の私のダーリンが力あるから、すぐ止めさせるように言うよ」 「力があるって……?」 「それは内緒」  人差し指を唇に当てる古典的しぐさをする金髪だった。  エステル嬢がシンディと直己を見比べる。 「お二人は同級生なんですって?」 「そう。真柴中学校の同級生。その後はね、喬木くんは本城第一高校じゃん。私は有栖女子高中退だもん」 「先生って犬もらってくれたんだよね~、ママ」  とランディが口を挟む。 「うん。ランディが赤ん坊の頃ね。その頃のダーリンが和犬のブリーダーやってて。失敗作を殺処分するって言うから」 「失敗作って?」  とエステル嬢。 「尻尾がちゃんとクルンと巻いてないとか、その程度よ。でも高く売れないから殺すって言うんだよ? そんで、もらってくれる人を探して探して……喬木医院に辿り着いたわけ」  覚えている。シンディは背中に赤ん坊を背負い原付バイクに乗って喬木医院にやって来た。荷台には子犬を入れた段ボール箱が括り付けてあった。  ちなみにその頃はまだ黒髪だった。苗字が既に瀬戸内に戻っていたか、まだ嫁ぎ先のものだったかは覚えていない。 「あの後、私もいろいろあってさ。ちゃんとお礼に行かなかったけど、ありがとね。喬木くん」 「別にちょうど犬を飼いたいと思ってた時期だから。それに、ろくに面倒見ないで逃がしたし」  冷めたコーヒーを啜る直己をシンディが見つめて、 「自由にしてくれたんだ?」  にやっと笑った。  直己は呆然とその目を見返した。そういう考え方もあったのか。 「お代わりを……」  とカップを持ってドリンクバーに立った。  また涙腺が緩んでいる。  そうか。あの犬は自由になったのか。  名前も家もない犬だけれど、自由だけは手に入れた。  エステル嬢を牧田産婦人科クリニックまで送る車中、直己はランディから聞いた真相を語っていた。  自分の口で順序立てて語ることによって真っ白だった頭がようやく真相を飲み込んだ。  もっともそれで気が晴れたというよりは、心に散らばっていた汚泥のようなものが胸底に沈殿してずっしり重くなっただけだった。  家に帰り着くなり精神安定剤と睡眠導入剤を服用した。  雨足は強くなっていた。  寝床に入っても鳴り響く雨音に眠りを妨げられて、暗闇の中で輾転反側するばかりだった。    それから数日後のことである。  珍しく晴れた一日だった。じきに夏に入る気配である。  新宿の病院で精神科を受診して帰って来た直己は、家の塀を見て驚いた。  落書きがきれいに消えている。医院側も自宅側も、塀も玄関口も綺麗になっている。晴れているのに道路が一面に濡れているのは、洗浄車を使って大々的に壁面掃除をしたと見える。  前夜までは清川聖都と桃井樹里の奮闘むなしく汚れが付いていたのに。今や落書きがなかった部分まで磨き立てられている。  瀬戸内シンディ言うところの〝力のある御仁〟のお蔭だろうか。  その力とは組織暴力団関係か、国家権力関係か。どちらでも似たような気もするが。  洗い清められた塀に対峙して直己は、むくむくと奇妙な可笑しさが込み上げてくるのを感じた。  思わず知らずくすくすと笑っている。  それは音羽亭弦蔵師匠の落語を聞いた時の気分にも似ていた。    

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