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第26話 祝儀不祝儀がぶつかった件
開口一番は松吉だった。
考えても見れば松吉の落語を聞くのは初めてである。
颯爽とした着流しで松吉が舞台に現れるや直己は胸がきゅんとなる。もう目が離せない。
白足袋で緋毛氈が敷かれた高座に上がり紫色の座布団に正座をする。手前に扇子を一本置くのは客席との結界である。深々とお辞儀をして話し始める。
普段の小さな声とはまるで違う腹に響く声である。
「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」
前に聞いたことのある和歌である。
あれは稽古だったのか。
傘の貸し借りの噺〝道灌〟だった。今日の天気にふさわしい。
うっとりと松吉の姿に見惚れる。
直己にとってはこれが本日のメインイベントのはずだった。
けれど続いて登場した真打音羽亭弦蔵の噺こそ、やはりメインに違いなかった。
マクラと呼ばれる雑談で直己もエステル嬢も既に笑いが止まらない。
高座を下りることなく短い滑稽噺を続けて二席。
お笑い番組のような大袈裟な動きは何もないのに、語りだけで笑いの勢いを増幅させている。
しまいには直己は涙を流して爆笑しているのだった。
これまでの屈託の一切合切が見事なまでに消え失せている。すとんと音を立ててどこかに抜け落ちたかのようだった。
以前、松吉がとてもはしょって言っていたが、
「辛い事があって落ち込んでいたが弦蔵師匠の落語を聞いて励まされた」
という言葉の意味がよく理解できた。
そして、仲入りと呼ばれる休憩後は〝子別れ〟という噺だった。
別れた夫婦の仲を子が取り持つ人情噺なのだが、随所に笑いを盛り込んでいる。笑いがあるからこそ涙の場面がより際立つのだった。
プログラムが全て終わると、追い出し太鼓が鳴ると共に、
「ありがとーーございましたーーーー!」
と大きな声が聞こえる。
松吉の声だった。
そう言えば、太鼓も松吉が叩くと言っていた。
その音が消えるまで、直己はエステル嬢と共に会場の客が殆ど退出するまで残っていた。
笑いによって全てが浄化され清らかになった。そんな気分だった。
会場を出ると直己とエステル嬢は腕を組んで楽屋に松吉を訪ねた。
師匠の着物を畳んでいた松吉は呼ばれると、恥ずかしそうに目を伏せてやって来た。
「どうだった?」
「すごく面白かった!」
間髪入れずに答えたのはエステル嬢だった。
直己はいきなり思い出し笑いをしてしまう。話そうとしては笑っているのを松吉は満足げに眺めている。
笑いながら祝儀袋を差し出た。表書きの名前は墨痕黒々と〝梅吉〟と書いた。
「え……っ⁉ 師匠に?」
「松吉にだよ」
「だって、こんな立派なご祝儀袋……前座なんかポチ袋でいいんだよ」
耳元で囁いた。
「松吉は私の師匠だから」
たちまちその耳が赤らむのを目の当たりにする。それを隠さんばかりに「ありがとうございます!」と丁寧に頭を下げる松吉である。
「今日はありがとうございます」
奥から錦鯉のアロハシャツを着た弦蔵師匠がやって来て、直己の顔を見るなり手を打った。
「あんた。こないだ、バーくろかわでレタスチャーハン食べ損ねた人だろう」
「お、覚えてるんですか?」
「うちの師匠は人の顔はよく覚えるんですよ」
脇から松吉が得意そうに自慢する。
自分だって生徒の名前を覚えてるぞ! と少しむっとする。
嫉妬?
落語では〝悋気 〟と言う。
「また作るから、くろかわにも来てください」
と親し気に肩を叩かれた。妙に可愛げのある強面である。
「さーて、帰るか!」
ルイ・ヴィトンのスーツケースを手にする師匠だが、松吉はそれを奪って後をついて行くのだった。
コンサートホールの駐車場は館内に精算機が二台ある。
落語がはねた途端にそこに走った人々は早々に駐車場を出られたが、楽屋で時間をとった直己は精算機に出来た長蛇の列に並ぶ羽目になった。
「ザッツ田舎! 車が足で、駐車場が異様に広くて、精算にとんでもなく時間がかかる」
うんざりしたように言うエステル嬢である。
そこに、よく響く声で呼びかける者がいる。
「先生~! 喬木せんせ~!」
赤毛に緑のヘタのような髪の毛がついた男の子。隣には金髪女性もいる。瀬戸内ランディとその母シンディだった。
諸悪の根源!!
身を固くする直人にランディは屈託なく話しかけるのだった。
「お茶してこうよ~、せんせ~」
呼びかけるランディに、
「じゃあ、あそこはいかが?」
と率先してエステル嬢が外に見えるファミリーレストランを示した。わざとらしくも直己の腕に腕を絡めている。
落語会の間は上がっていた雨が、またしとしとと降り始めていた。
ホールからファミリーレストランまでの短い距離を傘をさして小走りに行く。
レストランのテーブルを囲んだ四人で日本人らしい名前を持つのは直己だけなのだった。
シンディ&ランディ親子はここで夕食を済ませるらしくチキンソテーのジャンバラヤのサラダのスープのと盛大に注文している。
直己はとても食べる気にはなれずドリンクバーだけを頼んだ。
エステル嬢はプリンアラモードなどを頼んでいる。
「先生。い~い物見せたげる」
直己がコーヒーを持って戻って来ると、ランディは腿をぴったり付けて脇に座った。そしてスマホの写真を見せた。
途端に直己はきょろきょろとあたりを見回した。
ファミレスはコンサートホールから出て来た客達で満員である。
スマホの写真が外から見えないように手で隠しつつ、
「これ……この写真……君?」
「こっちが僕。ほらほら~。ピアス付いてるでしょ~?」
ランディは自分のTシャツをめくって臍に付いているピアスを見せた。
更に写真を何枚もスワイプして見せる。
何やら影になってわかりにくい物もあるが、男二人の様々な体位が写っている。
セックスの写真だった。
臍にピアスがある男のペニスを口に含んでいるのは日野巡査である。
あるいはランディとディープキスをしている日野巡査。
ランディを背後から抱きかかえ、おそらく挿入しているであろう日野巡査。
直己はかろうじて無表情を保ったが、声だけは確実に裏返っていた。
「な、何で君が、こ……この人と?」
「だって仕事だも~ん」
よく見れば写真のランディは黒髪である。
「髪の色が……?」
小声で漏らすとランディは、にやりと笑って見せた。
「18才の誕生日にこの色に染めたんだ~。だから黒い時は18才未満」
と、にやにやしながら指先で緑色の髪を梳いている。
「未成年淫行……」
「さっすが先生。遊び慣れてる~」
と気安く肩を叩かれ、少しく身を離す。
「二丁目ってば偶然の宝庫~。こいつ初めての遊びで僕を買っちゃうんだよ~。特別料金の写真プレイ、初回だから割引するって嘘ついたら~。バカみたいに信じちゃって~」
直己はちらりと目の前の瀬戸内シンディを見た。
「お母さんは知っているのか、この仕事?」
シンディはプリンアラモードを食べているエステル嬢とスイーツ談義をしている。
「知るわけないだろ~」
申し合わせたようなひそひそ声になる。
「ゲイなのは?」
「それは知ってるよ。昔からずっと彼氏も紹介してるし~」
「ふうん……」
金髪でアクセサリージャラジャラのヤンキー娘がにわかに立派な母親に見えて来る。
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