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第25話 祝儀不祝儀がぶつかった件

13 祝儀と不祝儀がぶつかった件  田舎とは車がないと身動き出来ない場所である。  翌朝、そば屋和助に行こうと思った時、直人は服薬を控えた。やむを得まい。タクシーなどで行ったらまた閉塞感で死にそうになるかも知れない。  車を運転して行く方がいい。もちろん国産車である。  そろそろこの車も買い替え時である。新たに買うなら外車でも国産車でも、松吉の好きな車を選ぼう。  そしてまた助手席に乗せて人気のない隙を狙ってキスしてやる。などと益体もない事を考える。  そば屋和助は開店間もない時間帯だった。空いている駐車場に車を止める。  店の裏に回ってみると相変わらず犬小屋がある。入り口の横にはワンカップ酒のコップに差した紫陽花の花が飾ってある。  青く色づいた花は大人の拳よりはるかに大きく、小さなコップは今にも倒れそうだった。それでも手向けの花である。直己は屈んで両手を合わせた。  暖簾を分けて店内に入ると、「いらっしゃいませ!」と長靴履きの和助が出て来た。  直己の顔を見るなり、きまり悪い顔をする。構わず内ポケットから不祝儀袋を出して差し出した。 「これをペロに」 「あ、はあ……」 「俺は死んでるペロを連れて来ただけだ。殺してなんかいない」 「あ、いや……」  言い淀んで和助は不祝儀袋を見るだけである。  直人はわざと音を立ててそれをテーブルに置いた。 「もうひとつ。俺は嫌がる男の子に乱暴をしたことはない」 「……でもホモなんだろう」 「ホモだよ」 「え……マジそうなの?」 「ああ。ホモで悪いか」  言ってみてから駅前で女子高生にも同じ台詞を言い放ったと思い出した。  あの時初めて直己は自分で自分を認めたのだ。 「でも犯罪者じゃない。今までに一度だっておまえらに何かしたことがあるか⁉ あり得ない噂で盛り上がるな‼」  怒鳴りつけた。  店の奥から和助の妻が暖簾越しに覗いている。 「だって、みんな言ってる。日野だって確かな筋から聞いたって……商工会議所も言ってた」  直己はじわりと足を動かした。 「おまえに言ってるんだ!」  和助に胸と胸が接するまで近づいて小声で言う。 「それとも、今ここでおまえのを咥えてやろうか⁉」  駄目だ。これは脅迫だ。また噂になる。  というか、こんな奴のは咥えたくない。  何を言ってるんだ自分。  思うそばから追い討ちをかける。 「おまえの女房よりよっぽど上手いぞ」 「にょ……女房はやってくんない」  吹き出しそうになり慌てて口に手を当てた。そして辛うじて、 「誰がやるか!」  と怒鳴り捨てて店を出た。  国産車に乗ってドアを閉めるなり大笑いした。  腹が痛くなるほど笑いながらシートベルトを付けるとエンジンをかけて店の駐車場を出た。   「つばなれ」という言葉がある。落語界でよく使われる。  ひとつ、ふたつ、みっつ……と数える時に、ここのつまでは「つ」が付く。  とお、には「つ」が付かない。だから「つばなれ」は十を指す。 「つばなれしない」は十に満たない意味である。  喬木医院の患者は、あれ以来つばなれしない。  厄災はそう簡単には収まらない。医院と玄関の両方に落書きをされゴミを捨てられ続ける。ある意味、真面目で勤勉な犯人だった。  清川聖都は何日かに一度来ては、落書きを落として掃除をしてくれる。  気がつくと女の子を連れて来ていることもある。あれは確か聖都の同級生、桃井樹里(ももいじゅり)だ。門柱の陰に隠れてキスをしていたようだが見ないことにする。  直己は新宿セントテレジア総合病院には精神科受診のために通っているが、職場復帰したらアルバイトの時間を増やそうかと考えている。  いずれ喬木医院を閉めて、完全に新宿の病院勤務だけにする手もある。  空気には湿気が混じり、やがてしとしと雨が降り始めた。梅雨だった。  高松土産のうどんの残りを湯がいて食べる。  夜のニュースを見ていると、見覚えのある顔がテレビに映っていた。  白衣を着た数人がテーブルに並んで頭を下げている。口中に啜り込んだうどんを咀嚼するのを忘れて画面を見つめた。 〝金沢メビウス医科歯科大学医学部副部長 喬木正樹〟とテロップが出ている。  兄だった。久しぶりに見た兄は五才年上なだけなのに随分と白髪が増え、恰幅が良くなっていた。白衣はやはりネクタイを締めた上に着るドクターコートある。  兄が勤める医大で医師国家試験の問題を自分の大学の学生等に漏洩していたらしい。その不正に兄も加担していたらしく、記者会見で頭を下げているのだった。  直己は口からぶら下げたうどんの残りを啜り込んでもぐもぐ咀嚼した。  浅ましいことである。  その感想が不正を働いた兄に対するものなのか、母の自慢の息子が晒し者になって留飲を下げている自分に対してなのか、よくわからなかった。  篠突く雨の中、国産車に乗って本城コンサートホールに出掛けた。小ホールで落語会が開かれるのだ。  前に松吉にチケットをもらった音羽亭弦蔵独演会だった。二枚もらったうちの一枚はエステル嬢に贈っていた。  ホワイエで待ち合わせたエステル嬢は振袖姿だった。直己はTシャツ、デニム姿なのに。 「だって、伝統芸能だから正装しなきゃいけないかと思って」  と照れるエステル嬢である。  都心の寄席は普段着で訪れる場所である。けれど地方の落語会になると、正装で訪れる客もいる。落語という芸能の今現在の微妙な立ち位置かも知れない。  エステル嬢は直己の耳元で囁いた。 「今日は直己さんといちゃいちゃして来るって彼女に言って来た」 「いちゃいちゃ?」 「真柴本城中の人が集まってるんだよ。いい機会じゃない?」  と直己の身体に身を寄せて来る。 「え、何で?」 「多少の煙幕は必要だと思うよ。カミングアウトしないで、ずっとここで暮らすなら」  手と手をつないで指を絡ませようとする。 「いや、ちょっとそれは……」  直己はその手を振り解いてエステル嬢の肩を抱く。  真柴本城市の人々はそんな二人を見ているのかいないのか嬉し気に客席に向かっている。 「その節は、ありがとうございました」  席に着いてとりあえず大人の挨拶をしてみた。 「どういたしまして。こちらこそ、両親が勝手に縁談を断わったようで失礼しました」 「いや。いずれお見合いは断って欲しかったので、いい潮時でした。ずっと交際を続けて結納なんてなったら面倒だったし」 「私は正直、結納まで進んでもいいと思っていました。偽装結婚とかね……」  エステル嬢は、これ見よがしに直己に身を寄せる。  直己としても偽装結婚の申し出があれば渡りに船と乗ったかも知れない。この騒ぎがなければ。そして松吉と知り合ってなければ。  もちろん口にはしなかったが。    

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