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第24話 記憶力と文章力のせめぎあいの件
駅から家に向かってなだらかに伸びる坂道が見渡せる。
三十四年間見飽きた駅の風景と思っていたが、この角度で見るのは初めてだった。これが松吉が夜中に眺めていた景色なのか。そう思うと少し嬉しくなって頬が緩んだ。
にわかに空のペットボトルが飛んで来た。乾いた音をたててベンチに当たって跳ね返る。空き缶も飛んで来る。
「喬木! ホーモ!」
「変態! 喬木医院!」
「猥褻! 喬木医院!」
囃し立てる声がする。横になったまま目を上げると、駅前ロータリーの向こうから数人の男子学生が直己を嘲っていた。
それらの顔を見ながら、のろのろと身を起こした。直己はぼんやりと少年たちの顔を見比べていた。そして身体の中の何かが突然ぱちんと音をたてて弾けた。
一人ずつ指差しながら、
「本城工業高校、佐々木翔 !」
「真柴中学三年、阿部光晴 !」
「真柴中学三年、長野瑠偉 !」
「本城工業高校、夏目祥太郎 !」
腹の底から怒鳴った。
全身の力の全てが声に集中していた。
それぞれが驚きの余り口を開けたまま動きを止めた。
直己はかつてない憤怒がむくむくと沸き起こっている。
何ならベンチを蹴立てて飛び掛かってもいい。
どうしたんだ自分? 抗鬱剤が効き過ぎたか。
「ゴミを投げるな! ゴミ箱に捨てろ! 自分のゴミを取りに来い!」
足元のペットボトルや空き缶を示して、もう一度それぞれの氏名を怒鳴った。
気持ちとは裏腹に腰に力は入らなかった。なのでベンチに縋るようにして立ち上がって名前を喚き続けた。
佐々木翔と夏目祥太郎が恐々と直己のそばに来るとペットボトルと空き缶を拾って走り去ろうとした。
「夏目祥太郎! 喘息はもういいのか?」
直己は空き缶を握っている茶髪の少年に訊いた。
無言で足を止めた夏目祥太郎は、ばつが悪そうに直己を見て、こくんと顎を引いてから走り去った。
小児喘息の夏目祥太郎の家には夜中によく往診に行った。最近は緩解したのか呼び出しの電話もなくなっていた。殊更に覚えているのは大学病院を辞めて医院に入った直後に父から引き継がれた患者だからだ。
「何だよ、あれ?」
「昔往診してもらっただけだ」
「ホモに?」
「うっせ、うっせ!」
と走り去る工業高校生二人。あわてて中学生、阿部光晴と長野瑠偉もその後を追う。
「何で名前知ってんだよ?」
「知らねーよ!」
「学校に言いつけられたらやばくね?」
などと言い合っている。
直己はまたベンチにへたり込んだ。
「あ、変態だ」
「やだ、ホモ医者」
と嘲笑しながら歩いて行く女子生徒にも、
「聞こえたぞ! 岸本花音 ! ホモで悪いか! 和田 えみり!」
と怒鳴りつける。名前を呼ばれた少女達もぎょっとして小走りで立ち去る。
今、直己はとても重要なことを口走ったのだが自分でも気づかなかった。
座ったまま駅前を通り過ぎる人々を見回す。改めて見ると直人はこの地の少年少女の大半を知っている。いや大人達も知っている。診察した患者、健康診断で見た生徒など。
名前まで覚えているのは、ある程度の特徴がある者だが。
以前、日野巡査が驚いていた。直己自身は大したことではないと思っていたが、実はこれは大層なことではないのか。呆然としているところに声をかけられた。
「喬木先生。その節はありがとうございました」
振り向くと松吉が駅舎から出て来た。
いつものザックを背負い、手には紙袋を下げている。
決して大声ではないのに周囲の人にも聞き取れる活舌の良い発音だった。
「風邪の時にはお世話になりました」
とベンチの隣に座った。
そして直人の膝に「うどん県高松市」と描かれた手提げ袋を置いた。
「これ、高松のお土産です。ぶっかけうどん。食べてみてください」
「あ、ありがとう」
呆然としたまま膝の上の手提げ袋を覗く。松吉はいつもの小さな声で言った。
「見てたよ。すごいね。全校生徒の名前を言えるの?」
「うん。いや。全員じゃないけど……俺、すごいかも知れない」
「今頃気づいたの? 梅吉はすごいんだよ」
くすくす笑う。えくぼが浮かぶ。
直己と松吉はベンチに並んで座り、同じように駅前通りの坂をまっすぐ見ている。
「大喜利だって一位だったじゃない」
「大喜利なんて出来ても仕様がない」
「その才能が欲しくて仕方ない芸人が大勢いるのに。少しは自慢したら?」
「あんなくだらないもの」
「それって私ら芸人に対する侮辱だな」
「……ごめん」
松吉はくくくと声を殺して笑い、手を差し出した。
ぼんやりと眺めていると「握手」と声を出さずに言われる。この前座は声の音量調節が自由自在だ。直己は握手をする。
松吉はベンチから立ち上がると、
「じゃあ、先生。ありがとうございました。帰ります」
今度は周囲に聞かせるような声で言った。
思わず直己も立ち上がり、
「家に寄ってかないのか?」
「これから浅草の夜席。ちょっと遅れちゃうけど。気になって寄ってみた」
と囁かれる。
「え……」
「ここで会えて良かった。今度またゆっくり来るね」
と直己の腕を掴んで、また駅舎に戻って行った。直己はベンチの背に縋ったまま松吉を見送った。
あの田園風景に見た松吉の姿はとても頼りなく見えたのに。今こうして見る背中は逞しく見える。
松吉の乗った上り各駅停車の電車が走り去るまで、直人はベンチの前に佇んでいた。
家に帰ると今日もまた清川聖都と婆様が医院の玄関の落書きを落としていた。
「うどんを作ってもらえますか?」
婆様に差し出した。
直己は婆様が作ってくれた料理を殆ど食べられないまま冷蔵庫や冷凍庫に保存してある。
わざわざ作ってもらったぶっかけうどんも、頑張って食べたが半分残してしまった。清川聖都がそれを、
「もらっていいですか。もう腹減っちゃって」
と豪快に食べて、バイトに行くからと帰って行った。
あれ以来、直己は二階の自室には着替えに上がるだけになっていた。座敷に布団を敷き延べたままそこが自室のようになっている。
考えてもみればこの家には直人と母しか住んでいないのだ。何も狭い子供部屋に暮らさなくともよかったのに。常に借りて来た猫のように小さくなっていた。
ダイニングキッチンのカウンターにあった小引き出しを持って来て座卓に据えた。上の引き出しに熨斗袋や筆ペンが入っている。祝儀袋と不祝儀袋を取り出して、まずは薄墨のペンで〝喬木直己〟と署名をする。
襖を開けて清川婆様が顔を出した。
「先生。今日はりんごを剥いたけえど、食べるかね?」
と盆にのせた皿を差し出した。りんごはきれいに皮を剥いて櫛形に切られていた。一つ摘んで齧ってみる。食べられそうだ。
「先生の字はいつ見ても綺麗だなえ」
婆様は不祝儀袋の署名を覗き込んで感心している。
「うちの娘も先生と同じ本城駅の荒又習字教室に行かせたけえど、字はうまくならなんだ」
などと言われて思い出す。
そうだ。自分は習字が得意だった。高校三年間は書道部に所属していた。都展で入賞したこともある。
あの表装した習字やもらった賞状やトロフィーはどこにしまったのだろう。探して松吉に自慢してやろう。
「はえ、どっかで不幸があったかね?」
「うん。明日ちょっと行ってくる」
「また遠くかね? 先生一人で大丈夫かね?」
「病院で薬をもらって来たから大丈夫だよ」
と薬袋を出して見せる。剥いてもらったりんごはしゃくしゃくと音をたてて全て食べ切った。
つづいて祝儀袋には「梅吉」と記した。
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